私は仲人を頼まれたときは、引き受けるに当たってまず喫煙の習慣がないことを確認することにしている。喫煙者の場合には、仲人を引き受ける条件として以後禁煙することを約束させる。しかし今までその約束が守られた試しはない。誠にもって遺憾なことではある。
=【解答者(Oさん)】=================================私信===
プログラマはなぜ煙草を吸うのだろう(回答)
私は喫煙者でもないし、もはやプログラマでもないのですが‥‥(略)‥‥
「良いプログラムコードを作るには、長い時間集中力を維持することが必要である」ことは理解できます。ここで云うところの長い時間とはどれ位を指すのでしょうか?最近、情報処理試験を受験しましたが、これは2時間の試験が3科目で合計6時間から成っていました。これからするに、人間の集中できる時間は、せいぜい2時間程度が限度ということでしょうか。しかし、これは特別の場合であって、毎日、このような緊張した時間を過ごしていたのでは、緊張の糸が切れてしまうであろうと思われます。
ということは、睡眠がレム睡眠とノンレム睡眠から成り立つように、プログラミング時間も集中力の深い時間と浅い時間から成り立たせる方が効果的にも思われます。
木下さんの指摘する「喫煙による思考の中断」は、喫煙室が出来てから、ますます、無視できないものになっているかも知れないと感じます。喫煙室が出来る前は、自席にて喫煙するので、席を立つ必要もないし、また、喫煙室で誰かと談話することもなく、「喫煙による思考の中断」が少なかったと思われるからです。一般に、行動(歩く、話す、食べるなど)が伴うと、思考は中断されるからです。
私は入社した当時、技術提携していた米社のあるプログラムのソースコードをトレースすることから仕事に入りました。それは素晴らしいコードでコメントも充実しており、英語の勉強にもなり、一挙両得でした。読み進む内に、あるステートメントで私は棒立ちになりました。一瞬、コメントが何を意味するのか分からなかったのです。そこには、「COFFEE BREAK!!」とコメント欄に記載されていたのです。勿論、ソースコードとは無縁の内容でした。暫くして、私は、やっと「ハハハン。彼は、ここでコーヒータイムを取ったのだな。」と気づきました。私もそこで、コーヒータイムにしたのは勿論です。今、考えれば、彼は、別にコーヒータイムとは限らず、一服したのかもしれません。それにしても、「洒落たコメントだなあ。」と感心したものです。日本人に「こんな事を書ける余裕はあるだろうか」とも思いました。
このコメントの意味するところは、意外にも、コーディングの途中でBREAKをする人間が居るということです。
昨今は、ソフトウェア設計もモジュール構造化が進み、一つのプロセジャーは小さいので、その区切りで、皆さん、喫煙しているものと、信じております。あるいは、その様にお勧めいたします。
話は、少し変わって、「花粉症」の季節になりました。この花粉症は人間の「集中力」を妨げることは、甚だしいものがあります。一方、私の研究によりますと、「喫煙する人間に花粉症はいない」という調査結果が出ております。煙草の煙で、鼻や目の粘膜が微粒子に強くなっているというのが原因であるとの結論に至っております。これからするに、現在の季節では、ソフトウェア生産性に以下のことが言えるかも知れません。
A:喫煙者
〜A:禁煙者
B:花粉症者
〜B:未花粉症者
〜A・〜B > A・〜B > 〜A・B >>> A・B
(もしいれば)
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【悩める相談者】
あ〜、実に興味深いご指摘ですねぇ。
この一通だけでも、私の期待を十分に満たしてくれました。
ところで“〜A”とは「禁煙者」ではなくて「非喫煙者」のことですね。それとも「未喫煙者」と言うべきでしょうか。
プログラマが集中力を維持できる時間は、個人差がありますから一概に何時間とは言えないでしょう。ときどき息抜きなどをしながら、これをできるだけ長く持続させることができるかどうかが大切なのだと思います。職場に喫煙エリアなどなかった頃、自席で煙草を吸っている人を見て私はいつも思ったものです。彼らは煙草の煙に目を細めながら、いかにも考え深そうに思考を続けているように振る舞っていますが、その実何も考えてはいないのです。完全にプログラムの内容からは離れてしまっていたはずです。彼らこそ“coffee break!!”いや、“smoking!!”とプログラム上に書き記しておくべきだったのです。
それにしても、コメント中に“coffee break!!”と書くというのは実にいい話ですねぇ。私めはそんなしゃれた方法はとりませんでしたが、中断した場所を明示するため、XXXXXXXXXXXXXXなどとまったく無意味な文字列を入れておくことはよくやっておりました。今でも文章を推敲中に、突然割り込みが入ったりするとこの手を使います。もちろん後で消去しますが。
プログラムの生産性と花粉症に関する“O仮説”は、どうも当たっているように思えます。私も何となくそんな気がしていたことに今突然気が付きました。だって、煙草を吸いながらティッシュペーパーを取り出してはなをかんでいる人など見たことがないからです。きっと粘膜をニコチンでコーティングすると効果があるのかもしれませんね。
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=【解答者(Fさん)】================================私信===
表題 【素朴な疑問】プログラマはなぜ煙草を(回答?)
煙草に関して言えば、優秀とか優秀ではないとかの問題では無いと考えます。プログラマーになる前から吸っていた、とか、なってから(少年時代からプログラムは作っていたような人の場合)吸うようになった、とか、単にそれだけではないでしょうか。
煙草を吸い始めたら止められなくなっているだけでしょう、きっと・・
‥‥(略)‥‥
私は煙草はやりません。そばで吸われると逆に効率がおちるタイプでしょう。
以上、回答なり意見になってないな〜
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【悩める相談者】
私は、プログラマの中の“特別に”優秀な人達だけを対象にし、彼らの喫煙という悪習について考察しただけのことであります。ご指摘のように、プログラマの優秀性と喫煙の間には何の関係もありません。はい。
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【悩める相談者への非本質的な問題提起について】
ところで、私の掲示の直後に次のような掲示が出現しました。自意識過剰な私めといたしましては、これが当社の技術情報誌で私の顔写真を見た上での感想のように思えてならないのです。まずは読んでみてください。(木下)
=【非本質的な問題提起者(Yさん)】==================投稿===
表題 ホームページ掲載顔写真はテーマに合わせた表情を
いくつかの社内ホームページで,顔写真付きの文書をよく見かけますね。それまで名前や文章でしかしか知らなかった人のお顔が見られるのは,楽しいものです。
しかしながら,軽いエッセイ的な内容にお説教中のような堅い表情が載っていたり,後進に苦言を呈する一文に破顔談笑の顔写真がついているといった,アンバランスな組み合わせのものも多くあります。こうなると不思議なもので,顔の表情の方の印象が勝ってしまい,肝心の文章がぼやけた印象しか残りませんね。
印刷物と違い,ホームページでは取り直しも入れ替えも,デジタルカメラで簡単にやり直せるのですから,テーマに合った表情で取り込まれてはいかがでしょうか。
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【“堅い表情”の悩める相談者】
自意識過剰な私めといたしましては、この「軽いエッセイ的な内容にお説教中のような堅い表情が載っていたり」という部分が、どうも私めの顔のことをさして言っているように思えてならないのであります。そこで、読者の好みによって“笑顔”と“堅い表情”のどちらかを選択できるような仕組みを作ろうと考えました。しかし、そんな仕組みを作るのは造作もないことですが、待てよ、私は自分の笑顔の写真など載せる気にはならんぞ、と考え直したのでした。
だいたい男の顔などというものは、ニタニタ、ヘラヘラした笑顔よりも堅い表情で苦虫を噛み潰したような顔の方がよいのであります。読者には、この際我慢をしてもらおう。
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=== Aさんからの私信 ======================================
素朴な疑問:ピンと外れの回答(番外編)
‥‥(略)‥‥
>> =======================================================
>>【悩める相談者】
>> 人の嗜好に関することを他人がとやかくいうべきではない、
>>と妻は言う。そうかもしれぬ。しかし私は、若いプログラマ達
>>が煙草を吸って時間を浪費するばかりでなく、自分の健康をも
>>害するような行為を平気で行っているのを黙って見ているべき
>>ではないと常々思っているのである。
>> 私は仲人を頼まれたときは、引き受けるに当たってまず喫煙
>>の習慣がないことを確認することにしている。喫煙者の場合に
>>は、仲人を引き受ける条件として以後禁煙することを約束させ
>>る。しかし今までその約束が守られた試しはない。誠にもって
>>遺憾なことではある。
>>
>> 最近は、この条件を敬遠してなのか仲人を頼みに来る人はい
>>なくなった。これは大変に結構なことではある。
私は幸いにして(?)煙草のみでは無いのですが、そして側で煙草を吸われるのはどうも好きでは無いのですが、木下さんほど煙草のみに対して厳しく接することができません。私は相当いい加減な性格なので、たまたま今まで吸う機会がなかったからそうしているまでで、きっと1度でも吸おうものなら、今ごろピーカンを抱えてうろうろしているに違いないからです。つまり厳しいお言葉を頂戴する側になるかならないかは私の場合紙一重なのであります。喫煙者の中には、例えば路上で煙草を吸いながらそいつを平気で振り回している輩など、無神経としか言いようの無い人たちがいます。非喫煙者はそうした無神経な喫煙者たちを非難のまなざしで見ているわけで、そうした人たちが結構存在しているのもまた確かです。しかし、喫煙者全員がそんなに無神経なひとばかりとは限りません。事実、私の友達でもカンピーの世界に没入している人もいますが、決して人前でプカプカやり出すような無神経な人物ではありません。
どうも私は煙草のみに対して比較的寛大らしい。それは自分がそうなる可能性が高かったためだけではなさそうです。
大学時代、私は応用物理学科に属していました。うちの応物は変な(?)ところで、普通なら工学部なのでしょうが理学部で、いわゆる学際領域の研究をするところでした。物理を中心に化学と応用数学が集まっていました。卒研では何を思ったか数学系の研究室に所属してしまい、いやはやエライ目に会いましたが、それでも幾つかためにはなりました。で、その先生なのですが、両切りのピースのチェーンスモーカーで、先生のかばんを開けるとピースの箱がバラバラと落ちてくる、といった有り様でした。しかし、この先生は非常にできる方でした。ゼミなどで後ろでプカプカやりながら学生たちの様子を見ていて、変な予想(定理になりそうな問題)など出そうものならたちまちにして反例を出してギャフンと言わせる、という具合でした。私にとって数学は全くアカン対象で、あの研究室に居ると自分が馬鹿に思えて仕方なかった。その研究室で一番頭がいいと思われる先生が煙草プカプカでは、煙草の害などたいしたことが無いかもしれない、と思わざるを得なかったのであります。
もう一つ私の敬愛する作家で開高健さんがいます(故人ですが)。彼は煙草プカプカ、お酒ガブガブで、その結果命を縮めたと思われるのですが、彼は良いアイデアは煙草が無くては生まれない、と力説しております。また、筒井康隆も、最近は煙草を吸わないやつが多くなって、思索が浅いつまらないものばかりで嘆かわしい、といったようなことをどこかで述べておりました。彼らの言わんとしているところも一理あって、確かに昔は煙草のみで「ない」人は少なくて、したがって皆な盛大にプカプカやりながら議論を戦わせていたはずで、煙草を吸っていたから議論が浅くなったとか、詰まらない結果しか得られなかった、とかは無いように思えます。
逆に自分の事を考えるに、煙草は吸わんくせに(?)、思考は浅く、集中して考えるなんてとんでもない、考え事をしている時はいつもイライラほっつき歩いてちっともジッとしておりません。木下さん説によれば、これじゃあいいプログラムなんかできっこないはずで、確かに仰せごもっとも、いい加減なプログラムしか書いたことはありませんが、しかし、それだけではないのだぞ、いい加減なやつにはいい加減なりのやり方があるのだぞ、と言いたくて仕方が無いのであります。もし、私のやり方にそれなりの価値を見出すことができるなら、きっと彼ら煙草のみだってそれなりのやり方があるはずで、もしかしたら煙草のみでない人たちには思いもつかない方法論でプログラミングしているかもしれない。
ということで、私には煙草のみをそれだけの理由で煙ったがることができないのであります。
‥‥(略)‥‥
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【悩める相談者からもう一言】
私は喫煙者に対して特別厳しい訳ではありません。彼らの中の一部の人の無作法な行為に対してのみ厳しいのです。
彼らは病気なのです。(彼らの内の多くの者は)麻薬中毒患者と同列におかれるべき病人です。病人に厳しく対応しても仕方がありません。ただ、病人とはいえ無作法な行為は許すべきではないと私は考えています。
私はできるだけ早く病気が治るよう手助けをしたいのです。まだ中毒症状の出ていない人には、病気になる前に早く止めるよう忠告することにしています。というのは、私は喫煙者の悲惨な姿を何度となく見てきているからなのです。
昔、山登りをしていた頃のことですが、南アルプス縦走などで仲間と10日間以上も長期間に渡って山に入っていることがあります。そういうとき、煙草は必需品で共同装備として持参し定期的に各人に一本ずつ配給されます(私は吸いませんが)。山行も後半になると、その貴重な煙草もなくなってしまいます。そうなると煙草のみというのは実に浅ましいもので、山道に煙草の吸い殻が落ちていないかと探すようになるのです。そして落ちているのを見つけると、それを拾って吸うのです。針金の先に刺して唇がやけどするくらい短くなるまで吸い続けます。実に浅ましい光景です。それを見て私は思いました。「気の毒に」と。
私は毎朝南武線で通勤しています。とある駅から乗車すると、40代の男性が座席に座っているのによく出会います。その彼の右手には必ず煙草の箱が握られていて、直ぐにでも一本取り出せるような体勢になって身構えているのです。立川までまだ35分もあるというのに、それが待てなくて必死で我慢している様子が傍目にもよく分かるのです。もっと正確に言えば、私の乗る駅から立川までが35分ということですから、既に乗車していた彼は高々1時間(川崎と立川間の所要時間)を我慢できないということになります。この人にまた別の日に出会うと、今度は右手の親指と人差し指の間に二つ折りにした千円札をはさんで座っていることがあります。初めて見る人には不思議な光景としか映らないでしょうが、私にはその意味するところが一目瞭然に分かるのです。それを見て私は思いました。「気の毒に」と。
だから私は、若いプログラマの方々に喫煙の習慣をやめるよう日頃からお節介にも忠告しているのです。誰も耳を傾けようとはしませんが。
煙草のみに対してうるさく注文を付ける人は、一般に、狭量で、神経質で、寛大さに欠け、包容力がないという目で見られがちです。そう思われたくないので誰も文句を言わないのです。結局のところ、この「注意をしない」「見て見ぬ振りをする」ということが、喫煙者のあの無作法な行為をはびこらせる原因なのだと思います。
私も今までは何も言わずにきました。会社生活20数年間ずっと我慢をしてきました。ずっと工場暮らしだったのですが、分煙というような習慣がなかったので、それはそれは苦しい思いをしたものです。ある時期などは自分の座席の位置が排気口の前にありました。それも、床の位置から全面(幅2メートル、高さ2.5メートルくらい)の大型の排気口ときているのです。それを背にして座っていたので、事務所のすべてのよごれた空気が私めがけて流れてくるのです。それでも文句一つ言わずに耐えました。家に帰ると全身煙草くさいと言われたものです。着ていたセーターなどは煙草の匂いが抜けません。頭髪まで煙草の匂いにまみれているのです。今思い出しても、あれはひどかったと思います。
その後エンジニアリング会社に移り、一応は経営幹部として総務系の人たちと席を並べることになりました。そして総務系の人たちは技術系の人たちの3倍は煙草を多く吸うということを発見しました。ここでも私は我慢しました。しかし余りの煙りのひどさにたまりかね、小型の扇風機を購入して煙の流れを変える工夫をしました。しかし冬場の寒い時期に扇風機の風に当たるというのは実につらいものでした。
そして本社ビルを建てることになったとき、私は断固として「分煙」を提案し、断固としてそれを実行したのです。うちのビルには立派な喫煙室が各階に設けてあります。私は喫煙者の要望もよく聞いて彼らのためにできる限りの努力をした積もりです。1Fのみは喫煙場所がロビーになっていたので、立派すぎて落着かないと言われれば、別の場所にテーブルと椅子を用意して喫煙場所としました。彼らに感謝されてしかるべきです。
さて、このように分煙が実現すると、その規則を守らない喫煙者には私は厳しく対応するように変わりました(それまでは、喫煙者に厳しく対応したりすることは決してありませんでしたが)。そしてそれが高じて、会社の外でも喫煙者の無作法な行為を見ると注意せずにはおれなくなってしまったのです。私のこの性格を知っている妻は、やめてほしいと言います。喧嘩になってなぐられるかもしれないからです(母子家庭になって路頭に迷うことを心配しているのでしょう)。私は、なぐられたら泣き寝入りしないでなぐりかえす性格ですから、何時か悲惨なことになるかもしれません。そのときは香典の額をはずんでくれるよう周囲の者には頼んでおります。
だいたい私は、喫煙者が吸い殻を(それも火が付いたまま)ポイポイと平気でどこにでも捨てる感覚がどうしても理解できません。誰が後の掃除をすると思っているのでしょう。そしてまた、喫煙者が吸った煙をどこにでもまきちらすのを私は理解できません。その煙がどこに流れていくかに、彼らは思いが至らないのでしょうか。そもそも男というものは、一度口に入れたものは断じて出してはいけないのです。一度吸い込んだら、煙といえどもすべて飲み下さねばいけません。
こういう気配りのできない人は、所詮プログラマには向いていません。私は、プログラムを作る作業というのは、推理小説を書くのと同じだと思っています。最後の大団円に向かって様々な伏線を張り巡らし、全体を精緻に構成していかねばならぬのです。隅々の細かい点にまで気配りと配慮が行き届いていなければ、到底良いプログラムなど書けません。そういう人は、小説の上で一度殺してしまった登場人物を、再び生きて登場させてしまうというような愚を犯してしまうことになるのです。これは変数の値を一度不定にしたのに、それを忘れてまた使ってしまうのとまったく同じことなのです(プログラムミスのほとんどは、通常こんな程度のものばかりなのです)。つまり、死んだ人を再び生きて登場させる(不定の値を用いる)ような小説は正統派の推理小説(正しいプログラム)と呼ぶに値しないのです。
喫煙者の、他人への気配りのなさを思うとき、彼らはプログラマという職業には向いていないとつくづくと思います。だから逆に、若いプログラマの方々には喫煙者にはなってほしくないのです。煙草をのみ続けたいなら、プログラマはやめるべきなのです。
ここまで忠告しても煙草を止めないプログラマは、要するに阿呆なのです。あぁ、言ってはならぬことをとうとう言ってしまった。袋だたきにあうだろうなぁ、もうやめておこう。
(終り)
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