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CMではなぜ“明日”を“あした”と読むのだろう
日曜日の夜になると我が家では家族がそろってテレビで東芝日曜劇場を見る。私はテレビドラマにはあまり関心がないのでそばで新聞や本などを読んでいるが、放映の終りに東芝グループの各社の名前が列挙されるときだけは視線をテレビの方へ向ける。そして、あぁうちの会社の名前も出ているわいと確認しては何やらホッとした気持ちになるのである。
ところで、私は東芝のコマーシャルメッセージ(CM)を見ていて、これまでずっと気になっていたことがある。東芝グループの標語『人と、地球の、明日のために』という文字が表示されるときのことである。この表示に続いて、男性の声で「ひとと、ちきゅうの、あしたのために」という声が流れる。その瞬間、私はいつも心の中で叫ぶ。「違う!」「“あした”ではなく“あす”だ!」と。
最初の頃は、家族の者に「“あした”ではなく“あす”と読むのが正式なのだ」と講釈を垂れていたのだが、家族からはそんなのどちらでもたいした違いはないでしょうという顔をされてしまった。以来このメッセージが流される度に、私は声には出さぬが心の内で「違う!」とか「違う、違う!」とか、あるいは「違〜ぃがぅって!」などと叫ぶようになってしまったのである。
そもそも(国語辞典で調べた訳ではないが)「明日の」を“あしたの”と読んだのでは、「次の日」という感じになってしまってキャッチフレーズの真意が正しく伝わらないように思う。「将来の」とか「未来の」という感じを表現するには断然“あすの”と読むべきだと私は思うのである。職場でもときどきこのキャッチフレーズに言及することがあるが、注意深く聞いていると誰でもこれを“あすの”と発音しているようだ(少なくとも私のいる青梅地区では)。やはり、こうでなくては。
有罪判決を受けた前歴があるのにゴリ押しで大臣となり、先日辞任させられた閣僚がいた。まだその短い在任期間中に、彼がある会議の席で挨拶しているのをテレビで見たが、裏方の用意した原稿を棒読みしたのであろう「将来のXX」という意味で「明日のXX」と言うべきところを“みょうにちのXX”と言っていた。何ともはや教養のかけらもない男のようである。こんな男を大臣にいただいたのでは、日本の“みょうにち”‥‥ではなく“あした”‥‥でもなかった、‥‥そう、日本の“あす”はないと思わねばなるまい。
テレビコマーシャルでは、なぜ“明日”(あす)を“あした”と読むのだろう。あぁ、今夜も明日((*))の晩も、私は(ずうっとずっと)眠れそうにない。■
【注】(*) これを“あす”と読もうが“あした”と読もうが、あるいは敢えて“みょうにち”と読もうが、それをもって貴方(女)の教養の程度を判断する材料にはならないであろう。したがって安心して自由に読むがよろしかろう。
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【悩める相談者による追記】
広辞苑・第三版(岩波書店)によれば、「あした」「あす」「みょうにち」の意味はそれぞれ以下のようになっている。
あした【朝・明日】
@(古代には、昼間を中心にした時の表現法と夜間を中心にした時の表現法とがあり、「あした」は夜間を基準にした「ゆうべ」「よい」「よなか」「あかとき」「あした」の最終部分)あさ。
Aあす。明日。
あす【明日】
@今日の次の日。あくるひ。あした。みょうにち。
A比喩的に、近い未来。
みょうにち【明日】
今日の次の日。あす。
これを見る限りでは、「あした」に“未来の”とか“将来の”という意味はないように思われる。
【悩める相談者】あぁ、今夜も、明日(みょうにち)も、明日(あした)も、明日(あす)も、私は眠れそうにないのであります。
(終り)
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