最近腹の立つこと
(6)

お説教


 近頃腹の立つことが多い。
 四月からまた新たな学期が始まるが、昨年度の授業で体験したことがいろいろと思い出されるのである。教師が腹を立てていては仕方がないのだが、いつまでもふっきれないでいる。以下にその顛末を紹介することにしよう。

 大学では、創立125周年(正確には昨年)を記念した事業の一環で建物の建て替えが計画されている。そのため私が授業で使う教室も変更になり、昨年は新しい教室で使うAV機器の扱い方をゼロから学び直さねばならなかった(腹が立つのはこのことではない)。

 事前のテストで、パソコン画面をプロジェクタでスクリーン上に投影するのは何とかできるようになったが、教室の後方の天井から吊るされている二つのTV受像機にはどうしても画面が表示できない。ビデオの出力もままならない。設備の管理担当者には連絡しておいたのだが、修理が行われ全部の機器が正常に使えるようになったのは既に5回目の授業に入った頃であった。やれやれ(これは確かに腹の立つことではあるが、私がここで指摘したい本筋のことではない)。

 この時点で、私は初めて気が付いたのである。教室内の様子が例年と較べて何か少し違っている。私は授業の最初に出席の記入用紙を配るため教室内を一巡することにしているのだが、教室内を歩きながら何か少し違うぞと感じたのである。AV機器の操作で頭が一杯で今まで気が付かなかったのだが、教室内の床の上にごみが落ちていることが多く雰囲気も何か少し乱れているような気がするのである。スナック菓子の袋や包み紙の切れ端、それに飲み終えたペットボトル等が放置されている。ペットボトルを机上に置いたまま受講している学生もいる。今まではなかったことだ。校則で、教室内での飲食は禁じられているというのに。これは一体どうしたことであろうか。注意を喚起する必要がありそうである。

 そこで私は予定を変えて“窓ガラス理論”というのを紹介することにした。
 窓ガラス理論とは次のようなものである。今、窓のガラスが何らかの理由で割られてしまったとする。これを修理せず放置しておくと、やがて隣の窓ガラスも割られ、その建物全体の窓ガラスが割られてしまう。そしてそれが隣のビルへと波及し、やがてその地区全体が荒廃した状態になってしまうというものである。つまり、最初の内に手を打っておかないと全体に荒廃が波及してしまい取り返しの付かないことになる。小さな問題を軽視しないで、こまめにつぶしていくこと、そして早く手を打つことの重要性をこの理論は教えているのである。

 この窓ガラス理論が有名になったのは、ニューヨークのジュリアーニ市長(当時)が実践して成果を上げたことによると言われている。ジュリアーニ氏が新たに市長になったとき最初にやったのは市内で起こる小さな違反、小さな傷害事件を徹底的に取り締まることであった。その結果、それまで殺人や強盗傷害事件が頻発し悪評が高かったニューヨーク市の治安が劇的に良くなったというのである。

 インターネットの世界での様々な違反行為、犯罪行為を取り締まるには、この窓ガラス理論の実践が必要である。それを教えるために私は授業の後半(全13回の11回目あたり)でこの理論を取り上げ紹介する予定にしていたのである。しかし今こそ話すべきときだと思い、その理論の教える「小さな違反を放置しない」という鉄則を実践すべく急遽この話を学生諸君にしたのであった。同時に、小さな校則違反に対する注意もしたのである。

 学内には、教室内の清掃を専門とする係りの人がいる。しかし清掃する人がいるからごみを捨てても構わないというものではない。ごみだらけの環境なら誰でも平気でごみを捨てるようになる。逆に、教室内がごみ一つない清潔な状態に保たれていれば誰でもごみを捨てることに躊躇するようになるであろう。

 企業では、自分たちの職場を清潔に保つのはその職場の人たちの責任であると考えるのが普通である。もちろん清掃の係りの人はいるが、もしごみが落ちていたら自ら拾って綺麗にするのが社員の務めであると私は長い会社生活の中で教育されてきた。立派な管理者になりたかったら自らごみを拾うくらいの気持ちを持つことが必要である。

 日本で造られる各種の製品が高い品質を保っているのは、こういった細かい努力の積み重ねの結果として得られたものなのである。特に大量生産される製品を扱う工場では、社員の服装にまで細かく気を配る必要がある。服装が乱れている環境では不良品が出るのは目に見えている。
 IT技術者の職場でよく見かける丸首シャツだけのくだけた服装は、少なくとも高い品質を求められる製品の製造現場には向いていない。というような話を、これから社会に出て企業人になるであろう学生達に話したのであった。

 しかし残念ながらあまり効果はなかったようである。相変わらず教室内はごみが落ちているし、机上にペットボトル等の飲み物を置いたまま授業を受けている者が多い。ペットボトルを常時持ち歩く生活習慣が普及したためであろうか、そんなことに異論をとなえる方がおかしいという雰囲気なのである(腹が立つのはこのことでもない)。

 私は全講義の終了時に受講感想を書いてもらうことにしているのだが、今年は「頭から意見を押し付けられる」あるいは「お説教をされている」というような意見が複数寄せられた。毎年このような意見は必ず出てくるのだが、今年は少し多かったようである。よく反省し講義の仕方を見直さねばならない。

 ところで、このような意見が出てくるのはもちろん私の講義の仕方が未熟だからであろうが、原因はそれだけではないような気もする。
 学生が大学で受ける授業には、まったく新しい知見を与えてくれる科目が多い。例えば「整数論」とか「量子力学」とかの科目を受講するとしよう。初めて学ぶ分野の授業では、学生は確かに“教えられた”と実感することであろう。
 しかし私が扱う科目はコンピュータが中心であり、その操作法、活用法について、それも倫理の観点から言及することが多い。学生達にとって、コンピュータは常に身近に存在し使い慣れている対象である。中にはその使い方(大抵は間違っているのだが)に、変な自信を持ってしまっている連中もいる。何も、私のような年寄りからその使い方についてあぁだこうだと言われたり、指導されたりしたくはなかろう。

 私は自己紹介で長年企業でコンピュータ開発をやってきたという程度の経歴しか述べていない。そして話すことと言えば自分の犯した失敗談ばかりである。自慢たらしい成功話など学生にとっては何の参考にもならないからである(もっとも、自慢する程の話題は何も持っていないが)。学生達にとっては、こんなどこの馬の骨とも分からぬ年寄りからものを学ぼうという気には到底ならないのかもしれない。残念なことである。

 特にインターネットの世界で、日頃から不正コピーをやったり、掲示板上で暴言を吐いたり、互いに罵り合っている連中にとって(私の受講生全員がそうだという意味ではない。一般論である)、私が話すような情報倫理に基づく解説などはすべてがお説教に聞こえてしまうのかもしれない。若者は、自分の思い当たることで何か一つ誤りを指摘されると、自分のすべてが否定されたように感ずるものらしい。

 「理想と現実は違います」という感想を寄せた学生もいた。私には当初この学生が何を言いたいのか理解できなかった。しかし今になって分かるのである。私の話が理想論を述べているように聞こえたのであろう。私が話す情報倫理に関する講義内容が「理想と現実は違う」の一言で切り捨てられてしまう程、現実は乱れきっていることの証しなのかもしれない。恐ろしいことである。

 コンピュータを使うのに我々は特別な免許を必要としない。弁護士や医者のように国家試験がある訳ではない。簡単な操作法さえ習得すれば誰でもコンピュータを使えるのである。そして、その誰でも使えるという特性こそが、倫理上の多くの問題を引き起こしている最大の原因なのである。
 これは丁度、自転車に乗るのと同じようなものである。自転車に乗るには免許は必要ない。操作法(つまり二輪車に乗るコツ)さえ習得すれば、誰でも自由に乗ることができる。誰でも自転車で公道を走ることが許される。その結果、交通法規などまるで知らない連中が歩道上を疾駆することになる。歩道上で歩行者にぶつかって大怪我を負わせても自分の非を認めない。信号のある交差点でも強引に自動車と同じように右折しようとする。まさに目に余るものがある。

 私の授業の目的は、言ってみればこういった交通法規を知らない自転車乗りに自転車の乗り方のイロハを教えるようなものなのである。普段、片手運転や手放し運転をしている彼らは、私から「両手でハンドルを持ちなさい」と言われても素直に聞く耳を持たない。交通法規などまるで知らないから、信号のある交差点での右折の仕方など知るよしもない。それを指摘されると「右折の仕方を押し付けられた」と感ずるのである。しかも自転車に乗る技術は自分の方がはるかに上だと思っているから、年配者の忠告などまるで聞く気がない。単なる押し付け、お説教に聞こえてしまうのである。私の担当する授業の難しさは、実はそこにあるのである。

 特に私が今腹を立てているのは“人からものを学ぶ”姿勢が欠けている“自転車乗り”の学生が実に多いことである。人からものを学ぶ気がないのなら、大学へなぞ来るべきではない。少子化という特殊事情のもと、小学校以来の教育環境の中で学生達は長年チヤホヤと育てられてきた。そのつけが今まわってきたのであろう。気に入らない発言は、すべてお説教としか聞こえない“自転車乗り”の学生が多くなってきているのである。

 今年の2年生は、いわゆる“ゆとり教育”一期生だそうである。今年の私の授業はそういった学生達が対象となる。今から覚悟を決めてのぞまなければならない。■