今だから話そう 出張中の自動車事故
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出張中の自動車事故
── 日米の格差について
男ありけり
昔 男ありけり
初めての海外出張中に自動車事故に遭いけり
幸運の女神を取り逃がしけり
持ち帰った資料から、
医療関係者の努力を半世紀ぶりに知り 感謝!
事故に遭う
フロントガラス越しに、コンクリートの壁がせり上がるようにこちらに迫ってきた。「ガシーン!!」 ---- 身体の芯にまで響くような激しい衝撃。自動車事故に遭ったのである。
二十六年ほど前(*1) 、初めての海外出張でアメリカへ行っていたときのことである。車の事故にはくれぐれも気を付けるようにと上司に言われてきたにもかかわらず、この体たらくである。仕事の上で会社に迷惑をかけるし不名誉なことでもあるので、そのときの事情は今まで誰にも詳しくは話したことがない。しかし四半世紀も過ぎそろそろ時効になった頃でもあるので、ここらでその折の顛末を記しておこうと思う。【注】(*1)この章の冒頭部分は『ソフトウェアの法則 』(1995年発行) の中の「ソフトウェアと時差 」というエッセイの中で書かれたものです。したがって“二十六年ほど前”というのは1968年のことになります。ここで私は、アメリカで経験したさまざまな出来事や文化の違いからヒントを得て、日米の違いを“時差”(年数と時間)という単位を用いて比較し紹介することを試みました。その中で、自動車事故のことも目立たぬようひっそりと公開した積りだったのです。
ところが更に26年が経ち、終活の一環として昔の資料を調べていて昔怪我をしたときの医療関係の資料を見つけました。それを読んでいて自分が重大な勘違いをしていたことに気が付いたのです。そこで、ほぼ半世紀が経過した現時点(2021年)で、当時の文章に一部手を入れて、構成も見直すことにしました。ただし時差に関する私の感想は当時の原文のままとしました。以前のテキストに修正を加えた部分は青色文字で区別してあります。
アメリカでの生活
アメリカの西海岸と東京とでは、時差は(夏時間があるから )約十六、七時間である。日曜日に羽田空港(当時はまだ羽田からだった )を出発すると、同じ日曜日の早朝にサンフランシスコ空港に到着することになる。生活の足場とするアパートは出張先の方であらかじめ手配しておいてくれたので、到着したその日からアパートに入ることができた。
私は時差に早く慣れようと思い、到着した日の昼間は眠いのを我慢して起きていることにした。ここで寝てしまうと今度は夜になって目が冴えてしまって眠れなくなるからである。そこで、眠気を払うために一人でアパートの近所を散歩してみることにした。外はカリフォルニアの太陽の光が眩いばかりに輝いており、眠い目には痛いくらいであった。その強い陽射しの中で見る緑の芝生や青々とした木々の葉が、明らかに異国の地に来ているんだという実感を与えてくれた。
散歩のもう一つの目的は、アメリカの車の運転マナーを確認することであった。西海岸では車は赤信号でも「常時右折可」のはずだと聞いていたからである。言うまでもなくアメリカでは車は右側通行であるから、日本流に言えば「常時左折可」ということになろう。しかしアメリカの交通法規は州によって異なっているので、この地域(のちにシリコンバレーと呼ばれるようになった地)ではどうなっているかを自分で運転する前に確認しておきたかったのである。
緑の芝生の上を歩いて近くの交差点まで行き、しばらく車の動きを観察することにした。見ていると、右折する車は赤信号のときは一時停止して安全を確認した後でそのまま右折している。ここでは常時右折可になっているようである。のちにボストンで生活して知ったのだが、東海岸などではもっと交通事情が悪いので常時右折可とはなっていない。さらに、アメリカでは左折する車に対しては専用のレーンが用意されていて、後続する直進車の流れを妨げることのないように配慮されている。しかも左折車専用の信号機がかなり低い位置に設置されており、ドライバーの視線の正面に見えるので安全対策の面でも日本よりはるかに進んでいる。
日本でも最近は一部の交差点では右折車専用レーンが作られているが、ないところの方が圧倒的に多い。これが二六年前の話であるから、当時の交通の安全対策は日本とアメリカとでは少なくとも二六年と一六時間の時差があったということであろう。
車を借りる
アパートはマウンテンビューという市にあって、そこから隣りのパロアルト市にあるオフィスまで通うことになった。パロアルトにはコンピュータサイエンスのメッカともいえるスタンフォード大学がある。このスタンフォード周辺は車がないと生活ができないところなので、翌日早速レンタカー屋へ行って、フォード社の車マスタングを借りることにした。アメリカの車はどれも図体が大きく、日本でカローラを転がしていた身にはとてものことでは乗る勇気の出ないようなバカでかいものばかりである。マスタングを選んだのは、その中では比較的小振りの車だったからである。
マスタング(前) マスタング(後)
しかし週末の休みを利用してあちこちとドライブするうちにだんだんと運転にも自信がついてきた。一緒に出張した同僚二人はまだ免許を持っていなかったので、運転はもっぱら私の役目である。日帰りではあったが三人でかなり遠出ができるようになった。そのうちにアリゾナ州フェニックス市に出張している友人たちと電話での連絡がつき、一度どこかで会おうということになった。それで初めて泊まりがけでヨセミテ国立公園(*2) へ行くことにし、そこで落ち合うという段取りになったのである。【注】(*2)ヨセミテ国立公園はカリフォルニア州のシエラネバダ山脈に広がる自然公園である。
ヨセミテまでの道程は順調で何事もなく到着し、フェニックスから来た四人とも無事に会うことができた。その夜は全員て食事をしたりバーへ飲みに行ったりして楽しい時間を過ごしたが、仲間の一人がバーの主人から「大人である証明がない」と入場を断られる一幕もあった。一般に東洋人は年齢よりも若く見られることが多い。身分証明書を見せれば問題はないが、たまたま持っていないと入れてくれないのである。その点は実に厳格だ。翌日は全員でヨセミテ公園を見物し、それぞれ帰途につく予定になっていた。
自動車事故の経緯
翌朝全員で出発することになったとき、私はフェニックスから来たO氏にしばらく運転を代わってもらうことにした。彼らは四人とも全員運転ができたのだ。別れたあとはまた私が一人で運転をしなければならないので、今のうちに休んでおこうと思ったのである。しかし本当のところは、彼らの乗っているギャラクシーという名の大型のアメ車にちょっと乗ってみたかっただけなのだ。そろそろ車に慣れてきてマスタングのような小型の車ではなく大型の車に関心が向いてきていたのである。実はこれが間違いのもとであった。
私はH氏の運転するギャラクシーの右側後部座席に乗せてもらい、その車を先頭に一行は出発することになった。ほどなく車はヨセミテ公園の中の、道がゆるくカーブしているあたりにさしかかった。しかし、スピードを出し過ぎていたためか車はその何でもないカーブを曲がりきれずに、その先にある橋の欄干の先端に何と正面衝突してしまったのである。
後部座席からフロントガラス越しに前方を見ていた私には、その衝突までの一部始終がはっきりと見えていた。しかしそれまで激しく揺れ動いていた窓の外の景色が、激しい衝突とともに瞬時に静止してしまったとき、何が起こったのかしばらくは理解できないでいたようである。
しばしの静寂ののち、事の次第が分かるとともに「おい、大丈夫か」と互いに声をかけ合って全員がそろそろと身体を動かし始めた。前部座席の二人はガラスの破片を浴びて身体のあちこちから血を流していたが、何とか全員の意識はしっかりしているようであった。
私はといえば、たまたま左手にカメラを持っていたので衝突の瞬間に空いていた右手だけで前の座席の背に甲の部分から手をついたらしく、右手が痛いだけで身体には血を見るような怪我はしていない。しかし右手が痛い。見るとレザー張り(本物のレザーである )の座席の背に大きな穴がぽっかりと空いている。右手の拳でそこを力まかせに殴りつけてぶち抜いた形になっているのだ。これだけの穴を空けるには相当な力が必要だろう。
無事な方の左手を使って、ようやくのことでドアを開けて外に出る。右手が痛い。手首の数センチ上あたりが焼け付くように痛い。見ると、打撲した部分がみるみるうちに盛り上がってくる。これは只事ではない。骨折していることは明らかである。後続の車に乗っていた友人たちが心配そうに寄ってきたのでカメラを渡して事故の様子を写真に撮ってくれと頼む。案外に冷静である(こういうときこそ冷静でなくては ‥‥しかし痛い)。
事故直後の様子
ドライバーのマナー
事故の影響で、公園内の道はたちまち車が数珠つなぎの渋滞状態になってしまった。しかし誰もクラクションを鳴らしたりして騒ぐものはいない。静かに待ってくれている。実に運転マナーがよい。大丈夫かと激励してくれる者もいる。しばらくすると公園のレンジャー部隊の人がやって来て、我々怪我人を近くにある公園内のクリニックへ車で連れていってくれた。すべてがてきぱきと行われ、実に手慣れている。ドライバーのマナーといい、この種の救急医療体制といい日本とは比較にならないものがある。時差は三〇年と一六時間くらいであろうか。
しばらくしてレンジャー 部隊の車がやってきた
クリニックの医者は早速X線撮影をしてくれて、骨折であると宣言しギプスをほどこしてくれた。五週間くらい経てばギプスをとれるだろうと言う。他の友人たちは脛の骨が見えるほどの怪我をしている者もいたが、応急手当で何とかなった。結局、血を流さなかった者が一番重い怪我をしていたことになる。
ヨセミテ公園の病院で撮影した レントゲン写真 (撮影日:1968-6-2)
ギャラクシーは大破してしまったので、運転手のいない私のマスタング一台のみが残された。やむなくフェニックスから来たO氏が、私の車を運転してパロアルトまで我々を送ってくれることになり、フェニックスの残りの三人はヒッチハイクでアリゾナまで帰ることになった。あとで聞いた話では、何回も乗り継ぎながらも無事に帰れたそうである。怪我をした身体で大変だったであろう。O氏の方は、我々三人を無事パロアルトまで送り届けてから一人飛行機でフェニックスへと戻っていった。すべては休日中の出来事であった。
アメリカの医者
休み明けの月曜日は何事もなかったようにオフィスで仕事をしていると、アメリカ人のプロジェクトリーダーがたまたま私のデスクにやってきて、私の右手が三角巾で首につるされているのを発見し仰天することになった。 早速近くの医者に行くようすすめられ、予約も取ってくれた。
仕方なく約束の時間に彼の車で連れていってもらうと、サニーヴェイル市にある一見普通の家のような外観の落ち着いた感じの医院で、しかも予約されているのでまったく待たされることがない。当時の日本では、病院とは何時間も待たされるものというのが常識であったから、この効率の良さにただただ驚きかつ恐れ入ったものである。最近でこそ日本の病院も予約制のところが増えてきてはいるが、この点では日本との時差は二五年と一六時間というところであろう。
この病院でもまたX線撮影をしてくれたが、すでにギプスで固められているので写真の写りが悪い。そのため正確な診断は出来ないが一二週間はギプスはとれないだろうという。早くギプスをはずしてほしい私は、ヨセミテの医者は五週間ではずしてよいと言っていたと主張した。しかし、しばらくはそのまま様子を見ることになった。
ところで、帰るときになるとサニーヴェイルの医者は患者を玄関まで見送ってくれるのである。アメリカでは、医者にとって患者はあくまでもお客様なのだ。患者の立場に対する見方が日米ではこのように違う。もし患者の顧客満足度(カスタマーサティスファクション)というものを比較したとしたら、当然同じ水準では論じられないほどの越えがたい格差となって現れてくるのではないかと思う。つまり、日米の時差は測定不能ということである。
幸運の女神が側を‥‥
さて、右手が不自由になると当然私は車の運転ができなくなった。仕方なく、オフィスへの行き帰りのときだけは、近くに住む同じオフィスで働いている女性に車の運転をお願いすることにした。それ以外は仕事の上で特に不自由を感ずることはなかった。会社へ定期的に送る出張報告書の作成は仲間が協力して書いてくれたし(彼らの協力には今でも感謝している)、普段の仕事上では専任のテクニカルライターがついていたからである。
当時「テクニカルライター」という職種は、初めて聞く呼称であったが、我々の作る手書きのドキュメントを即座にタイプして立派な文書にしてくれる。そして校正が終わるとただちにコピーを取ってプロジェクトの全メンバーに配布してくれるシステムになっていた。
当時はドキュメントを残すことの重要性が叫ばれるようになったばかりであったので、この方式は大変参考になった。このようなソフトウェアプロジェクトの運営の仕方では、日米の時差も二〇年と一六時間ほどの差があったのではないかと思う。最近ではワープロやパソコンの普及で、個々の技術者が自分で簡単にドキュメントを作れるようになった。したがって、テクニカルライターの役割も当然変わってきている。ソフトウェアの開発体制の違いはどの程度であろうか。もはや一般論として比較するのは難しい時代になっているように思う。
一方、私生活の上では不便なことばかりであった。まず、私的な手紙を書くのまで友人に頼むわけにはいかない。仕方なくタイプライターを買うことにした。日本製の英文タイプライターで手頃な値段のものがあったので購入し、ローマ字つづりで家族や友人に手紙を書くことにした。
そうやって週末ごとにローマ字つづりの手紙を書いているとき、私は凄いことを思いついたのである。ローマ字で入力すると、それが漢字になって印刷できたらどんなに素晴らしいかと。
当時「ローマ字入力」などというものをこれほど続けて大量にやった人間はほかにはいなかったであろう。この経験から、そのときは心底そう思ったのである。今でこそかな漢字変換とかローマ字変換などは当たり前の技術であるが、当時は大型機でも日本語が扱えなかった時代である。そんな夢のようなことができるはずがなかった。単なる空想としてやり過ごしてしまったのである。
今から思うと、禍いを転じて福となす絶好の機会を与えられていたのである。このアイディアを思いついたとき(1968年)に概念的なことだけでも特許にしておくべきであった。日本語入力の技術が後に開発されるよりも10年も前(*3) のことである。そこが凡才の悲しさ、幸運の女神が側を通り過ぎたことに毛ほども(後ろ髪のそよぎすら)気が付かなかったのである。特許のアイディアなどというものは、特別に高度な技術である必要はなく、ちょっとした思いつきによるものの方が価値が高い場合が多い。ただ、それを早く思いついたかどうかの違いであろう。
【注】(*3)日本で最初の日本語ワードプロセッサを開発した東芝が、特許を出願したのは1976年、キャノンが出願したのは1978年といわれている。
ギプスをとる
そうこうするうちに、事故から五週間が経過した。そこで、サニーヴェイルの医者のところへ行ってそろそろギプスをとつてほしいと頼むことにした。医者はまだ早いと言うのだが、こちらとしても右手が自由になって車を運転できるようにならないと生活の面では不便で仕方がない。ヨセミテの医者は五週間経てばとってもよいと言ったと強硬に主張して、とうとう了解を得ることに成功した。そこで、いよいよギプスをとることになった。
医者は部屋の隅に置いてある丸いノコギリの歯が付いた器械の前に私を連れていき、おねむろにスイッチを入れた。何と、回っているノコギリにギプスの部分を押し当てて切るらしい。これでは腕が切れてしまうではないか。しかし日本男児、ここでうろたえるわけにはいかなかった。医者を全面的に信頼するしかない。見ているとノコギリの歯は柔らかいものであるらしいが、医者の手でしっかりと固定されたギプスに食い込んで凄い音を立てている。
だんだんと圧力が皮膚の方に加わってくる。医者は止めてくれない。これはかなわん。何とかしなければ。痛いというのを英語ではどう表現したらよいかなどと考えている余裕はなかった。「あっ! 痛たたた…!」と思わず日本語で叫んでしまった。医者にもこの日本語が通じたのであろう、すぐさまスイッチを切ってくれた。実はまだ痛いところまでは行っていなかったのであるが。このときのことを思いだすたびに、「痛い」という日本語が通じたのだと思うとおかしくなる。もっとも、ああいう状況で患者が何やら叫びだしたら誰だってスイッチを切るであろうが。
とにかく腕はちょん切られずにギプスをとることに成功した。しかしギプスから解放されて軽くなるはずの右手は支えを失い、案に相違して重くて上にあげることができない。はずすのが早すぎたのである。結局、再び肘から手の甲へかけて副木を当てられ、その上から包帯でぐるぐる巻きにされてしまった。しかしこれで右手がある程度自由になったので、何とか自分で車を運転できるようになった。買い物にも自由に行けるようになったのが一番ありがたかった。それに何よりも、服を着替えたり、風呂に入るのが簡単にできるようになったのがうれしい。これで外見だけは怪我をしているようには見えなくなったのである。
アメリカでは、仕事の関係で知り合った人などには初対面のときに必ず握手をする習慣があるようである。握手は、相手の眼を見ながら力強く握るのがコツである。私はいつも相手に負けないよう力を込めて握ることにしている。あるとき仕事の上で知り合ったカリフォルニア大学のM教授と握手することになった。教授は私の手を握って力を込めたのだが、私の手の甲に副木があるので一瞬びっくりしたようであった。しかしそこは紳士である。決して何も聞こうとはしなかった。
私は帰国する前に、サニーヴェイルの医者から私の事故に関する診療記録を渡されていた。受け取った直後にざっと見たが、ヨセミテの医者が撮ったX線写真のネガが2枚、サニーヴェイルの医者がギプス付きのままで撮ったX線写真のネガが2枚、大型封筒に入っているようであった。
持ち帰った私の医療記録一式
帰国する
骨折がなおりきらないうちに、仕事は予定通りに完了し日本に帰国することになった。お土産にはいろいろと買い込んだが、何よりも記念に持って帰りたかったのは、ほかでもないヨセミテ公園で拾った松ぼっくり(正式には松かさ)であった。日本では想像もできない大きさの松の実をヨセミテ公園で何気なく拾って持ち帰ったのが、アパートの自室に置いてあった。これが乾燥するにつれ堅い実が花開くように外側に開いてきて、実に見事なオブジェになっていた。これは絶対に捨てられない。何とか日本に持ち帰りたいと思った。
『ソフトウェアの法則』の挿絵として 描いた「松ぼっくり」
そこで悪知恵をはたらかせることにした。三角巾を付けなければ怪我をしているのを隠すこともできたが、あえて右手を三角巾で首に吊って、痛々しい格好で帰国することにした。羽田の税関を無事に通過したあと、気が付くとなぜか三角巾の中にくだんの松ぼっくりが紛れ込んでいたというわけである。
帰国してからは近所の病院へ通って骨折のなおり具合を診てもらうことにした。そのとき私はアメリカの医者が渡してくれた資料を持って病院へ行くべきだったのだが、そのことを全く忘れてしまっていたようである。そして二十数年が経過し、終活の最中に偶然その資料を見つけることになった。詳しく読んで見るとアメリカで受診した二人の医師の資料だと思っていたのだが、私の理解していたのとは大分違っていた。
サニーヴェイルの医者が、すべてのX線写真のネガ(全部で9枚程あったのだと思われる)を取り寄せてそのコピーから圧縮して4枚のネガフィルムを作ってくれたらしい。各々のフィルムには撮影日まではっきりと表示されていた。しかももう一人別の医者が関係していて、多分X線写真を読み取って診断できる専門の医師なのであろう。詳しい診断書まで添えられていたのである。
専門医による診断書(S.M. Glasser, M.D. July 9, 1968)の内容
RIGHT WRIST:
There is an oblique fracture of the distal end of the radial shaft. The more medial distal projection of the fracture line extends to the articular surface of the radius. The fragments are in excellent apposition and alignment. The fracture line, however, is still clearly discernible with very minimal evidence of callus formation. There is no change in the good position of the fragments contrasted with a film taken at the Lewis Memorial Hospital, dated 6-2-68.
IMPRESSION:
Well healing fracture, distal end of radial shaft, with good position of fragments and minimal callus formation.
日本語訳(医学の専門用語に疎いので訳はいい加減です )
右手首:
橈(とう)骨の遠位端に斜めの骨折がある。骨折線のより内側の遠位突起は、橈骨の関節面まで伸びている。断片は良好な位置にある。しかし骨折線は依然としてはっきりと識別可能であり、カルス形成の可能性はごくわずかだが残っている。1968-6-2 付けのルイス記念病院で撮影されたフィルムとは対照的に、断片の良好な位置に変化はない。
感想:
骨折の治癒が良好で、橈骨の遠位端で断片の位置は良好であり、カルス形成が最小限に抑えられている。
以下の画像は、サニーヴェイルの医者がギプスをはずした直後に撮影したものであることが分かった(私はヨセミテの医者が撮影したものと誤解していた)。
ギプスをはずした直後の画像 3つの画像が1枚のフィルム に圧縮されている (撮影日:1968-7-9)
前図の真ん中の画像を拡大したもの 矢印が、骨折線を指し示している
これらの個人データは、原本を貸し出した後は必ず作成部門に返却されることになっている。そしてコピーされたものは、個々の患者の治療に積極的に利用できるという考え方なのであろう。私は何も要求しなかったのに、次の診療の機会に利用されることを前提として医療関係者全員が努力してくれていたのである。
患者が日本に帰国すると聞いて資料を持たせてくれたのに、肝心の患者(私めのことである)が無知であったがために全く活用されなかったことになる。当時の日本では“かかりつけ医”という制度は存在していなかったと思うが、私が受診した病院に 仮に提出していたとしてもそれが活用されたかどうかは疑わしい。そう考えると、私の手元に偶然に残されたのは幸運なことだったのかもしれない。
さて、帰国してからは私は近所の病院へ通って骨折のなおり具合を診てもらい、同時にリハビリの治療を受けることになった。
日本の医者は腕の様子よりも、私が腕に付けてアメリカから持ち帰った副木の方に関心があるようであった。手の甲と肘に当たる部分がそれぞれ透明なプラスチックでできていて、それを金属でつないで作られているアメリカ製の立派な副木をためつすがめつ観察しながらしきりに感心している。日本の保険医療ではこのような立派な副木は絶対に使えないと溜息混じりにいうのである。その頃の保健医療における日米の差は相当なものであったらしい。
最近ではアメリカの医療保険制度は破綻をきたしているという話も聞くから、現時点での差はどのくらいなのか知らないが。私は、しきりに感心している医者にその副木を進呈しようかとも考えたが、別に欲しがっているわけではないので余計なことは言わないことにした。
最後に、私の医療記録の作成に関与してくれたアメリカの医療従事者たちに感謝の意を表すためにも、半世紀遅れになってしまったがここに記録として残すのが私の義務であるような気がしていたのである。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
(以下省略)