私の作文作法
(7)

「冒頭の文の書き方」


 技術論文や技術解説などを読んでいると、冒頭の文が「近年、コンピュータの技術進歩は目覚ましいものがあり‥‥」などと書き出されていることが多い。この“近年‥‥”を見付けると、私は「あぁ、またやっているな」と思う。これは、お粗末な書き出しの典型のようなものだからである。

 これでは何も言っていないのと同じことで、読み手の関心を引き付けることはできないであろう。タイトルを工夫し、ある程度問題領域を限定しておいてから、冒頭からすぐ読み手の関心を引き付けられる核心部分へと入っていくべきなのである。そうしないと情報過多の今日、読み手の関心は直ぐ別のところへ行ってしまうであろう。

 ところで文学作品の場合には、冒頭の書きだしはなお一層大切なものとなる。簡潔な書き出しで特徴を出そうとすれば、

 「吾輩は猫である」(7文字)

などが最も短いものの代表ではないかと思う(私はあまり文学作品を読んでいないので、よくは知らないのだが)。これより短くして特徴を出そうとするのは大変難しい。

 「春が来た」(4文字)

などはどうであろうか。

 これよりも更に短くするには主語を省略するしかない。しかし冒頭から主語を省略しても構わないのは、「私」と天候に関するものの場合であろう。これを利用すると、たとえば、

 「雨が降る」(4文字)
 「寒い」  (2文字)
 「秋だ」  (2文字)
 「眠い」  (2文字)
 「あ」   (1文字)
  ‥‥

 やれやれ、これではどうも読み手の気持ちを引き付けられる何ものも浮かんではこないであろう。「吾輩は猫である。名前はまだ無い」と短く畳み掛けられると、つい興味をひかれて先を読みたくなるものであるが。

 逆に長い文章で特徴を出そうとすると、井上ひさし作「吉里吉里人」の冒頭の文章が思い出される。

 『この、奇妙な、しかし考えようによってはこの上もなく真面目な、だが照明の当て具合ひとつでは信じられないほど滑稽な、また見方を変えれば呆気ないぐらい他愛のない、それでいて心ある人びとにはすこぶる含蓄に富んだ、その半面この国の権力を握るお偉方やその取巻き連中には無性に腹立たしい、一方常に材料(ねた)不足を託つテレビや新聞や週刊誌にとってははなはだお誂え向きの、したがって高みの見物席の弥次馬諸公にははらはらどきどきわくわくの、にもかかわらず法律学者や言語学者にはいらいらくよくよストレスノイローゼの原因(もと)になったこの事件を語り起すにあたって、いったいどこから書き始めたらよいのかと、記録係(わたし)はだいぶ迷い、かなり頭を痛め、ない知恵をずいぶん絞った。』

 この位の文章を一気に読み下せないようでは、この分厚い「吉里吉里人」を読了することなどおぼつかないぞ、という著者からの挑戦のように感じられる。あんな大作を書くのは到底無理であるから、長さで勝負するのも難しい。どうやら技術文書を書く上では、文学作品は参考にならぬようである。■

(1997-03-31:掲示、2000-9-1:削除、2006-3-1:再掲示)