新聞の記事に「強い自負心、現状に不満」というタイトルで I LOVE YOU ウィルスを流したフィリピン男性の話が載っていた(朝日新聞2002-1-1-15日朝刊)。それを読んでいるうちに私は無性に腹が立ってきた。何がねらいでこんな記事を載せたのだろう。
私がそのとき怒りにまかせて書いたのが、次に掲げる投稿文である。その後新聞社からは何の反応もないから、多分(いや、確実に!)没にされてしまったのであろう。昔、国の検定を不合格となった教科書が「検定不合格教科書」として売られていたが、それを真似た訳ではない。しかしこれを読めば投稿するときの参考に(いくらかは)なるのではないか。このように書くと必ず没になるという見本である。
今から思うと、新聞社の採用している表現基準に合わせて「ウィルス」を「ウイルス」と書いたり「ハッカー」という用語を「クラッカー」の意味で用いたりしたのはいかにも迎合的で見苦しかった。「ソフトウェア」を「ソフトウエア」と書きかえられることを恐れて、注意深くその用語の使用を避けたのも腹立たしいことではあった。
投稿「私の視点」 ハッカーの技術力
インターネットの世界では、いまやコンピュータウイルス被害が多発し各種の違法行為がまかり通っている。これら違法行為を未然に防ぐには技術的な対策はもちろんであるが、むしろ情報社会における人倫の道を具体的に教育し、なぜ違法行為になるのかを情報社会の構造や実態に照らして理解させることが大切であり、より効果的であると考えられている。情報の読み書きソロバンにあたるいわゆる情報リテラシの必要性もこのような観点からのものでなければならない。
私は、長年の企業での経験を生かし現在は教育現場で情報と職業の関係を講じているが、そのなかで「自身の倫理観」についてリポートを書かせることを試みている。その提出されたリポートをつぶさに読み、最近の若者たちが持つ倫理観の一端に触れることができた。結論的に言えば至極まっとうな倫理感覚を持っていることを確認し安心したと言えるであろう。もちろんこうした場合の記述はきれいごとになりやすい。しかし人生のある時期に、自分の倫理観について真剣に考え文章の形で意見表明するという経験は、将来倫理の危機に直面したような場合に必ずや役立つであろうと信ずるからである。
ただ、気になる点がいくつかあった。それはコンピュータウイルスを撒き散らすハッカーへの見方である。彼らは、ハッカーの技術は優秀で自分もそうなりたいと一種のあこがれを持っている。同時にそういった技術をもっと他のことに活用したらよいのにとも考えている。ハッカーの技術うんぬんは別にして、ハッカーがその能力をもっと他のことに振り向けたらという感想には同感する者が多いに違いない。しかし実際に有用な物を作ろうとすると難しさに直面するはずだ。コンピュータのプログラムというものはあらゆる面で調和がとれていなければうまく動かない。色々な分野の知識をマスターすることが必要であり、それらをうまく活用する技能も要求される。ものを作り上げ支障なく動作させるのは極めて難しい仕事である。それに対し、ものをぶちこわすのは簡単である。一部の知識だけで十分であり、広い知識は必要としない。ウイルスプログラムを作るのに高い技術力は必要ない。若者たちはこの事実を知るべきである。時計の部品をばらすのは簡単だがそれを元通りに組み立てるのは容易なことではない。ハッカーを捕らえてみたら技術的にはまだ未熟な専門学校生だったという話もある。それがほとんどの場合の実態なのではなかろうか。余りにもハッカーを過大に評価してはならない。企業のなかにはハッカー経験者を雇おうとしているところもあるという。サイバーテロに備えてFBIが公聴会でハッカーに証言させている。新聞が元ハッカーの動静を伝えている。
ハッカーをかっこよいとあこがれる若者たちがいることを知ってほしい。元ハッカーを決してマスコミに登場させてはならない。企業は彼らを雇うべきではない。ハッカーは決して高い技術力を持っている訳ではない。広く勉強する意思も、高い技術を習得する熱意も根気も欠けている者達であると考えた方がよい。新聞記事によれば元ハッカーが言っていたという「だれも、ぼくが世界的に有名なハッカーだなんて知らない。価値がわかるやつがいない」 何という傲慢。私が常に尊敬してやまない真の意味でのハッカーに対して、これほど無礼で傲慢な発言があろうか。
時計をばらすのがうまいからといって時計の修理工になれるわけではない。■