3月も中旬のある日、「明けましておめでとうございます」という時期はずれのタイトルのついたメールが届いた。ウイルスメールが日に8通も届くような日が続いていたので、すわ、また新種のウイルスかと身構えたのだが、これは私のホームページの熱心な読者であるYさんからの便りであった。
メールには、受験生のYさんが無事希望の大学に合格したといううれしい報せが書かれていた。確か2年前、大学受験のためインターネットの利用を封印するためしばらく私のホームページにアクセスできなくなりますという報告があった。1年後の同じ頃、事情があってもう1年お休みしますというメールがあり(残念ながら浪人することになったのであろう)、その後どうなったか私も心配していたところだったのである。
長い受験戦争に耐えてとうとう目的を完遂することができ、まさに「明けましておめでとう」という気分になれたのであろう。他人事ながらうれしいことである。
大学ではよく勉強して「良い文章を書けるようになりたい」という本人の抱負が語られていた。そこで早速、合格のお祝いと大学生活での参考になればと若干のコメントを付けてメールで返信したのである。しかし、残念ながら彼の用いたアドレスがどこか間違っていたのであろう、宛先不明でメールは戻ってきてしまった。
Yさんが初めて私のホームページの読者登録をしてくれたのは、今から4年前で当時高校1年生のときであったと記憶している。私へのメールの文面を、普段使い慣れている口語(つまり現代の若者言葉)でつづってもよいかという問い合わせがあった。要するに若者特有の気軽な言葉遣いで、かしこまらない文面にしたかったのであろう。しかし私は、手紙を書くときはどんな場合でもあまりなれなれしくせず(目上、目下に関わらず)普通の言葉遣いで書く方がよいですよと返信したのを覚えている。以来、彼は礼儀をわきまえた普通の言葉遣いで、それでいて若者らしい溌剌とした文章のメールで感想を寄せてくれていたのである。
良い文章を書けるようになりたければ、まず普段から良い文章を読み(私のホームページの文面がそれにふさわしいとは思わないが)、正しい日本語で文章をつづる努力を続けることが基本であろう。
最近の若い人たちから届くメールを読んでいると、その表現力の豊かさに驚かされることが多い。大変勉強にはなる。しかし反面、一抹の不安も感じるのである。それは主に彼らが用いる普段の話し言葉、つまり“会話体”の文章に起因するところが多い。
携帯メールが普及し、普段友達同士の電話で会話していたものがそのままメールの文章に置き換わって空を飛び交っている時代となった。昔、文語体と口語体(*1)があってそれが口語体に一本化されたように、今や口語体と会話体があり、若者たちの主に用いる表現法が携帯メールを媒介として会話体に一本化されようとしているように思うのである。
【注】(*1)「文語体と口語体」については、素歩人徒然(53)の「表現力」を参照。 |
もちろん会話体でも、ある何事かを主張しようと思えば十分に主張することはできるであろう。しかし説得力ある主張ができるかというと、その点に関してはいささか疑問が残ると言わざるを得ない。何かを主張するということは、相手に同感してもらうことが目的の一つとして含まれていなければならない。そうでなければ単なる喧嘩や脅しになってしまう。インターネット上での論争を見ていると(読んでいると?)、この「同感してもらいたい」という目的や意欲が欠如しているとしか思えないような一方的な主張の文章に出合うことが多い。
同感してほしければ、まずもって説得力ある論理を展開しなければならない。それには正しい日本語の文章で自己表現ができなければならない。会話体の文章で説得力ある論理を構築しようとするのはいささか無理があるのではないか、というのが私の主張である。会話体の文章は、思考の深さにおいても論理を構成する力においても、書き言葉としての口語体よりはるかに弱いと思うのである。
若者言葉もよいと思う。
メールの文面を
ブツブツと不規則に
改行コードで区切ってしまうのもよいが、
改行一つにも意味があるということを知ってほしい。改行は段落の意味で用い、それ以外の改行はワープロ機能によくある自動改行にまかせるなど、一つ一つの文字、言葉をもっと大切に扱ってほしいものである。
我々はもっともっと古くからの日本語を大切にし、それを正しく使えるようにならなければならないと思う。特にこれから企業等で働こうと思う人にとっては、これは必須の能力となるのではないか。■