【休暇】みかん山の隣人たち
── 多様な物の見方
読んでいる本の話の中に、突然明らかに自分の身内と分かる人物が登場してきたとすれば、誰しも驚くに違いない。自分がその経験をしてしまったのである。
兄は数年前、海を臨むみかん山の頂上近くに家を建てたが、私がたまたま読んでいた本の作者であるイラストレータ女史はその隣人であるらしい。得意のイラストをふんだんに使って、はるかに海を臨む別荘地での生活を軽妙に描いている。イラストのほのぼのとした雰囲気と気楽な文章とがマッチして楽しい本ではある。しかしモデルにされた隣人たちの立場からは気になる記述が随所にみられる。もちろん女史の側には他人を傷付ける気など毛頭ないのであろうが。
本人は隣人がこの本を読むとは露ほども思っていないので、隣人の立場に対する配慮が欠けているのである。作中には近辺の地図が出てくるし特徴のある隣人たちが次々と英字の略称で登場してくるので、当事者が読めば直ぐそれと分かるのである。
作中で兄(KIとして登場する)は「週末だけ利用する」「散歩をしない」別荘族の一人として描かれている。サラリーマンである兄は週末しか利用できないのは事実だが、ロードレーサーで周辺をサイクリングしたり、早朝のジョギングや散歩をしたりしているのを女史は知らない。不注意に茂みの中などを散歩すると、まむしに襲われる危険があることも女史は知らない。地元の人と親しくなれば直ぐ教えてくれることである。しかし地元の人達と距離を置いて暮らしているらしい女史には知り得ないことであろう。
女史の隣に住む写真家の家は貸しスタジオを兼ねているらしく、ヌードモデルを呼んでは庭で撮影をしたりしているそうである。そのためか車や人の出入りが多く、それが女史には悩みの種になっている。兄の家も客が多い。家の前に数台の車が並ぶことも希ではない。同様な目で見られていることであろう。熱心なクリスチャンである兄は週末の憩いの時間を身内だけでなく多くの友人と分かち合いたいという生き方をしているだけである。
このみかん山には、この他に一風変わった隣人達がたくさん住んでいる。画家、彫刻家、大学教授、それに何にでも首を突っ込んで来てトラブルを引き起こす「半チャック」と呼ばれる老人もいる。「半チャック」とは、義姉が初めてその老人に会ったとき彼のズボンのチャックが半開きになっていたので付けた名である。義姉の、想像力に富んだユニークな命名には何時もながら感嘆させられる。義姉がこれらの隣人達と引き起こす事件は、それこそ一遍の小説になるくらいの傑作な話の連続である(しかし、本論とは関係ないのでやめておこう)。
女史に言わせると道で会う地元の人たちは皆無愛想であるという。確かに彼等は口数は少ないが親しみやすい人たちである。私が初めてこの地を訪れ、みかん山の急な坂道を初めて登ったとき、道の両側には立派なみかんが鈴生りになっていたのを思い出す。その時「こんなにたくさん成っているのだから、一つくらい貰っても構わないだろう」と思ったものである。しかし思いとどまった。その直後に会った兄から、このみかん山での注意として言われたのである。あの道のみかんは「死んでも取るな」と。みかん農家の人達にしてみれば、自分達が丹精込めて作ったみかんを盗まれるのではないかと心配になるのであろう。新参者に対して警戒的になるのは当然である。あの時、落ちているみかんでさえも拾わなくてよかったと安堵したものである。私が海岸沿いのジョギングを終えてこのみかん山の急な坂道を登ってくると(車も登るのがやっとという程の急な坂道なので、残念ながら走らずに歩いて登ってくる)みかんの手入れをしている地元の人たちはいつも気軽に声を掛けてくれる。顔見知りになれば、親しみやすいよい人達なのである。女史の見解にはまったく同意できないところがある。
女史は近所のレストランの料理の味まで批判している。なるほど料理の味などというものは、個人の好みの問題であるからどう評価しようと勝手であるが、レストランの主人の身になれば心穏やかではすむまい。女史の極めて一面的な物の見方が気になるのである。
結局、女史は海の見える場所ではなく、海の見えない林の中に家を建てることになる顛末が記されている。しかし、くだんの本には兄の家のベランダとおぼしき場所からの眺めや、風呂から海を臨むイラストが描かれている(想像で描いたものであろう)。その絵を見ていると、どうやら女史は海の見える兄の家がある場所あたりに自分の家を建てたかったのではないかと思えてくる。いやいや、これこそ一面的な物の見方であるかもしれない。一番怖いのは、一つの真実に対して特定の角度から見た一面的な事実だけを捉らえて、それが唯一の真実であるかのように思い込み、文章にして公表することである。読む者は常に作家の側に立ってそれを受け入れるので、それが揺るぎない真実であると思ってしまうことが恐ろしいのである。一つの真実でも、見る角度によっては「多様」な事実が見えてくるものである。
ソフトウェアの世界でも「多様性」ということがよく話題となる。オブジェクト指向プログラミングでは、同じ名前の操作(真実)でも受け手となるオブジェクトが変われば(見る角度が変われば)、異なる振る舞い(事実)が見えてくるというものである。
クラスを設計する場合(クラスとは新しいデータ型のことである)、似たようなオブジェクトの候補から共通の特徴を抽出し、それを抽象することによって一つのクラスとしてまとめて表現する方法をとる。逆に見ると、うまく設計されたクラスからは多様なオブジェクトが生成できるということになる。したがって個々のオブジェクトは、多様な性質をまとめて表現したクラスの一断面を表しているという訳である。
この様にプログラミングの世界では、利用者が(みかん山の隣人とは違って)この多様性という性質をよく理解した上で積極的に活用することが求められている。オブジェクト指向以前の従来の操作(関数呼出しや手続きの呼出し)は、見る角度が最初から固定された一面的な物の見方(女史の物の見方)であるということになろう。
ところで兄貴夫婦は、この厄介な、そして愛すべきみかん山の隣人に対してどう対処する積もりなのだろうか。隣人と仲良くして時間をかけて誤解を解いていく道を選んでほしいものである。しかし、義姉がそのイラストレータ女史と親しくなるのだけは心配である。何事にも痛快な出来事をしでかす義姉は、小説の格好のネタにされてしまいそうだからである。■