(携帯電話がはやりだした初期の頃に書いたものです。電話というものの使い方が短期間に劇的に変ってしまったことが読み取れます。一部加筆修正しました)
◆電話にまつわる思い出
私は電話というものがどうしても好きになれない。子供の頃初めて家に電話が敷かれたとき、最初の頃は私にも何処からか電話が掛かってこないものかと期待していたのだが、結局何処からも掛かってはこなかった。そもそも私の友人の家に電話がなかったのだから、これは当然のことであったろう。
しかし親からは電話の掛け方、受け方について厳しく教えられたものだ。受けた場合でもまずこちらから名前を名乗ること(最近は名乗らない方がよいらしいが)、掛ける場合は用件をあらかじめまとめておいて手短に要領よく伝えることなどである。今でもこのときのしつけが身に付いているせいか私の電話は何時も極めて簡潔である。あっという間に用件を済ませて終ってしまう。それを聞いていた家族の者達は、私の電話はいつも短くて素っ気ないと言う。私に言わせればこれは逆であって、最近の若者達の電話に無駄が多過ぎるのである。彼等のように電話で長時間のおしゃべりをするというような使い方は考えられなかった時代を、私は生きてきたのである(もっとも、最近ではメール文化が発達してきているから、若者の電話による長時間のおしゃべりも少なくなってきているのではあるまいか)。
私が新入社員の頃、電話が自分の机のそばにあると気になって仕方がなかったものだ。職場の先輩たちの名前をまだ覚えきれていなかったので、掛かってきた電話の取り次ぎで右往左往しなければならなかったからである。職場に慣れてきてからも電話当番の役だけは誰でもしたがらなかったものである。
私が入社した当時の電話機は性能が悪かったのであろう、音が小さくてしかも職場がいつも騒然とした感じだったので大切な電話などは机の下にもぐりこんで雑音を避けながら話したりしたものである。長距離電話が入ると、蚊の鳴くような声しか聞こえず苦労したのを覚えている。そういうときは少しでも雑音を減らそうと、自分の送話器から入った音が受話器の方に回るのを防ぐため送話器の口を手のひらで塞ぎ、自分が話すときだけ開いたりする方法をとる。これを器用にやる先輩がいて、私も真似てみたのだがたいした効果はなかったようである。いずれにしても電話では苦労した思い出ばかりが残っている。
その頃からの癖なのであろう、私は普段から電話で話すときの声が大きい。話す相手が遠方にいるという意識があるだけで、もう声の調子が1オクターブ上がってしまっていたりする。国際電話などになると、海を越えて遥か向こうに届くようにという感じで声を発している有様である。これでは内密の話などできる訳がない。自分では分かっていてもこの癖は一向に改まらない。電話でひそひそこそこそと話すのは、どうも性に合わないのである。
海外出張でアメリカに滞在したとき、仕事先のオフィスで出張者全員にデスクが割り振られる。そういうとき皆先を争って電話の置いてない机を選んで自分の机としたものである。要領の悪い男に限って、その机にはいつも電話機が置いてあったりした。誰にとっても電話で英会話するのは苦痛だったのである。
特に私は英語のヒヤリング力が弱かったので、話す相手の口元を見ていないと何となく不安になるのであった。しかし会話力が未熟でも普通は1〜2か月もすると相手の話す英語がよく分かるようになってくる。そうすると誰でも自分のヒヤリング力が付いたと早合点するがこれは錯覚なのだ。あいつはこの程度のスピードで話さないと理解できないと回りの連中が分かってきて、私に向かってはゆっくりと話してくれるようになっただけのことなのである。ところが電話の相手だけはそういう配慮をしてくれない。受話器の向こうで早口でペラペラとまくし立てられて苦労するのは相変わらずであった。日本に戻ったとき、電話を日本語で掛けられると知って(それまでも、知ってはいたが)何かほっとしたものである。日本語で自由に話せるなら、どんな困難にも打ち勝てるような気がしたものだ。
◆電話の上手な使い方
最近の職場では、各人の机に大抵電話が一台置かれている。私はこれが邪魔で仕方がなかった。電話というのは実に無神経なもので、仕事中に無遠慮に割り込んでくる点が好きになれないのだ。しかも掛けてきた相手は、そんなこちらの気持ちなどまったく忖度しない。無遠慮にずかずかと家の中に入りこんでくるようなものである。
私は、こちらから掛ける一方で掛かってくることのない電話があればどれ程よいかと思ったりしたものだ(相手もそう思っていたことであろう。双方とも同意見なのに実現しないのがまか不思議なところである)。
そして電子メールの時代がやってきた。私はすべての連絡がメールで届くようになればよいのにと何時も考えていたのである。
メールシステムが実際に普及してみると、普通の電話が掛かってくる頻度は確かに少なくなった(期待に反してゼロにはならなかったが)。その結果、割り込みが少なくなって自分のペースで仕事ができるようになった。それにメールだと未知の人からのメールでも、読む前にある程度の心の準備ができるのがよい。普通の電話では、久しく音信のなかった人から突然連絡があったりすると、名前だけ名乗られても直ぐには相手の顔が思い出せずうろたえることが多い。あれは困ったものである。
最近は職場に電話を掛けて来るのは、メールを利用できない人か、あるいは社外の人からだけである。それ以外の電話は、たいていは何か緊急の要請であることが多い。一方私の方から電話を掛けるのは、社内で緊急に面会したい人にアポイントメントを取るときくらいのものである。電話の使い方が皆ある程度うまくなってきたというべきであろう。
私の家では長年ダイヤル式のあの古風な電話機を使っていた。私は存外これが気に入っていたのである。ところが家族の者たちは留守番電話やキャッチホンの機能が必要だと言ってこれを高機能のプッシュホンにとり替えてしまった。家人の長電話で電話機を占領されてしまうと“キャッチホン”という割り込み機能は必須のものとなる(まだ各人が携帯を持つようになる以前の話ですよ!これは)。しかし家人は、キャッチホンで割り込んできた電話相手とまた長々と話をしている。これでは割り込まれた最初の話し手に失礼ではないかと気になる。しかも相手から掛かってきた電話なのだから電話代を負担しながら他人の電話が終るのを待っていることになる。こんな不合理が許されてよいはずがない(この間、電話会社は料金の二重取りをしていることになるのではなかろうか?)。キャッチホンによる割り込みが何回も続いたときには、最初の話し手が誰だったのか分からなくなるのではないかと人ごとながら心配になる。
◆携帯電話というもの
ところで最近普及してきた携帯電話だが、これも私は好きになれない。中高生の間ではしばらく前からポケットベル(ポケベル)の利用が目立っていたが、それに代わって携帯電話を持つのが主流になってしまった。自分では稼いでいない学生が(ポケベルならともかく)高額の通信費を要する携帯電話を持っている。これが私には不思議でならないのである。自分で稼ぐようになってから自腹で購入すべきものであろう。
携帯電話を持ち歩き、人込みの中で無遠慮に大声を出して通話している人をよく見掛ける。多分、彼は1秒でも無駄にできない“重要人物”なのであろう。
こういった携帯電話がらみのマナーの悪さは、よく指摘されるところである。駅のホームで、電車内で、喫茶店の中で、あるいはホテルのロビーでと所構わず大声をあげている。最近電車内のアナウンスでは「携帯での通話はご遠慮ください」とやっているが、そんな注意などどこ吹く風の体で、座席で「もしもし‥‥」などとやっている。こういうのを傍若無人の振る舞いというのであろう。実に嘆かわしいことである。
私は常時携帯電話を持っていたいと思わない。それに、私が人前で電話などしようものなら、例の大声を発するという癖が出てしまうであろうから想像しただけでも恥ずかしくなる。
要するに私は、自分の居場所を常時報告していないと困るような“重要人物”ではないということなのであろう。私が出先で緊急に電話が必要になるとすれば、電車事故などに遭って到着が遅れることを相手先に連絡するときくらいのものであろうと思う。そういうことは年に数回程度しかないから、私にとっては公衆電話の行列に並べば済むことだ。その内に携帯電話が普及してしまって公衆電話の前に行列などできなくなろう。それまでの辛抱である(しかし最近は公衆電話が少なくなってきている。これは想定外のことであった)。
以前、夜道を歩いていたとき向こうから一人大声で喋りながら歩いてくる人影があった。頭がおかしいのではないかと気味悪く思いながらすれ違うと、何と携帯電話に向かって喋っていたのである。人騒がせなことだ。車を運転しながら電話を掛けている人もよく見掛ける。あれでは注意が散漫になり危険この上ない。そうかと言って運転の方に注意を向けていたら、今度は内容のある会話などできなくなるのではないかと思う。
最近、私はよんどころない事情で入院することになった。手術を受けて3日目に、ようやくのことでベッドを離れて一人で歩けるようになったのだが、そのとき私が最初にしたのは電話を掛けることであった。身体につながれたままの点滴注射の装置一式をスタンドに吊し、そのスタンドを引き摺りながらそろそろと廊下を歩いて行った(かなり惨めな格好だ)。そして、廊下の角にある公衆電話のところまで行って家へ電話し、無事歩けるようになったことを家人に伝えたのである。電話を自分で掛けられるようになるというのは入院患者にとっては快復段階の一つの節目のようなものである。ところが携帯電話の出現は、こういった病人の行動スタイルにまで影響を及ぼすようになってきている。
私のいた病室は5人の相部屋だったのだが、ある日一人の若者が入院してきた。注射がきらいだと言って点滴注射を怖がり、しばらくは看護婦さんを困らせているようであった。これはよくあることなので、どうということではない。しかし私が驚いたのは、入院して数時間後から彼の携帯電話が鳴りだしたことである。もちろん入院の見舞いの電話である。これがひっきりなしに掛かってくる。彼はきっと重要人物なのであろう。
その電話に対して、点滴注射を受けながら「痛い、痛い」と電話で実況中継している有様であった。病室内ではテレビは禁止され、ラジオもイヤホーンで聞く規則になっているのに、この傍若無人の振る舞いである。しかも消灯時間後にも、電話は遠慮会釈なく掛かってくるのであった。その頃の入院規則では携帯電話の使用は禁止されていなかったのである<*1>。携帯電話に向けて電話を掛ける場合は、やはり相手のいる場所と時間をわきまえてからにすべきであろう。受ける方も、割り込み電話を許すべきかどうかよくよく考えて、必要なら携帯電話のスイッチを切るくらいの心配りをすべきである。
【注】<*1>最近では、携帯電話の電波が医療機器の誤作動の原因になるということで、病院内では使用が禁止されている。