このエッセイは1997年頃(つまり今から10年前)に書いたものです。社内の掲示板に掲載したところ、読者の一人から「何かしり切れトンボになっているのでは‥‥」という質問がありました。そこで私は、自分の文章力が未熟であったと反省し、それを掲示板上から削除し没にしてしまったのです。しかし今の時点で見直してみてもそれほど直すべき点が見付かりません。そこで時の変化に合わせて一部を加筆修正し、再度公表することにしました。このことから、私めの文章力がこの10年でほとんど向上していないという見方も成り立つのですが‥‥。
── ソフトウェアの本当の良さを見抜くには
読んでいる本の中に、なにか旨そうな料理の話が出てくると誰でもついつい話に引き込まれてしまうものである。無論、私も例外ではない。
そういうとき私は、たとえ自分の知らない料理の名前が登場してきたとしても、適当に想像力を働かせて自分なりに話の辻褄を合わせてしまう。特に、フランス料理などでカナ文字のレシピが登場してきたときなぞはその傾向が強いようある。人に聞いてみると誰でもそうらしい。それだからこそ料理の話が出てくる本は誰にでもよく読まれ、よく売れるのであろう。
料理の場合は、訳の分からぬカナ文字の料理名が出てきても読者は決して文句を言わない。これで堂々と通用してしまうものらしい。私にはこれがどうにも不思議で仕方がないのである。むしろ分からない名が登場した方が、読者の想像力を刺激するという効果があるのかもしれない。
然るに、コンピュータ関係の本ではどうか。これが何とも不合理なことに読者はまったく受け入れてくれないのである。「カナ文字表記の用語が多すぎる」とか言って叩かれるのがおちである。コンピュータ関係のマニュアルの質の悪さを指摘するとき、その理由の第一にカナ文字表記の用語の多さが上げられることが多い。料理名なら許されて何故にコンピュータ用語の場合には許されないのか。これはどう考えても納得がいかない。これこそ差別以外の何物でもなかろうと私は思うのである。
ところで、私はもともと料理というものには関心がない。どちらかといえば“男子厨房に入らず”の口である。もちろん豪華な料理を食することは、私も人並み以上に好きな方ではあるが自分で料理を作ろうなどとは毫も考えたことがない。したがって、料理(あるいは単に食べ物でもよい)が登場する話は、私には書けないのである。いや、書く資格がないと言った方が正確かもしれぬ。料理の話が書けないというのは、何としても悔しいことではある。
しかし、パンのことなら私にも書けそうである。
パン。それは私にとってこの上なく魅力的で、そして思い出深いものなのである。それは多分、今は亡き私の母親の思い出とがないまぜになっているためであろうと思う。
私の母は、昔から家庭でパン作りをやっていた。今から50〜60年も前のことになるが、当時既に家の台所に天火(今でいうガスオーブン)が備え付けてあったのだから、かなりモダンな生活をしていたといってもよいであろう。イースト菌が含まれたパンの生地のひとかけらが、次にパンを焼くときのためにと戸棚(後には冷蔵庫)の中に保存されていたのを思い出す。
後年、海外出張でアメリカに長く滞在することになったとき、私が一番不満に感じたことはアメリカのパンは旨くないということであった。日本のようにパンの専門店(ベーカリー)がどこにでもあるという環境ではなかったので、どうしてもスーパーへ買い物に行ったついでにパンを買ってくることになる。ところが、スーパーで買ってきたパンはどれもスポンジのように弾力があって柔らかい。しかも一週間経ってもそのままの柔らかさを保っているのである。こんなパンが旨かろうはずがない。
最もアメリカ的な食べ物であるところのハンバーガーを思い出してほしい。彼らアメリカ人は、あのように何でもパンの間に挟むことをもってよしとしているように思えてならない。私は(かなり乱暴な議論を展開するけれど)これがアメリカのパンが旨くならない元凶ではなかろうかと普段から思っている。焼きたてのパンにバター塗っただけで食べる(*1)。あの旨さを彼らは知らないのではないか。何でもパンの間に挟んでしまうからそちらの方に気を取られてしまい、結局、パンそのものの旨さを知らないで過ごしてきたのであろう。だから彼らは、生(き)のままのパンをいかに上手く焼くかという努力の方を長年に渡って怠ってきたのである。
【注】(*1)最近では、メタボリックシンドロームという言葉に恫喝されて、私はパンには何もつけないで食べる習慣になっているが。
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アメリカで家族とともに暮らすようになったとき、私が真っ先に望んだことは家でパンを焼いてもらうことであった。素手では持てない程の熱い焼きたてのパンをたらふく食べてみたかったのである。
妻もアメリカのパンの不味さに辟易としていたのであろう、すぐさま乗り気になってくれた。私は早速パンの焼き方を書いた本を購入してきて妻にプレゼントし、私の母親と同じようなパン焼きのプロになってくれることを望んだのであった。このように私は、料理に関しては自分では何もやらない典型的な日本男児ではあるが、「パンを焼こう」と妻に動機づけをしたのは、他ならぬこの私であることをここに特に明記しておきたいと思う。
以来、我が家では妻のパン作りが始まった。しかし時間的に余裕があり機嫌の良いときにしか焼いてくれないのが唯一の難点ではあるが。
レーズン入りの菓子パンや食パンなどが焼きあがると、家中のものが殺到しあっという間になくなってしまう。もちろん、うまく膨らまず失敗することもたまにはあるが、そういうときでも私は誉めることにしている。よく言うではないですか、「朝夕のメシうまからずとも褒めて食うべし」と。
しかし、うまく焼けなかったときですら、焼きたてのパンというのは実においしいものである。思うに、パンの本当の旨さとは、あの焼きたての柔らかい噛みごたえとイースト菌の独特な香り、そして狐色に焼けた部分の香ばしさにあるのではないかと思う。その味を知らずに過ごす人がこの世にいるとすれば、それは何ともお気の毒というか、私にとっては信じられないことなのである。
そんな訳で、世間で一時流行った自動パン焼き機など、我が家では「おかしくって」ということになるのであった。
会社勤めをやめて以降、時間的に余裕ができたので私は自分でもパン作りをするようになった。我がホームページの【超極秘】欄の中の【パンを焼きました】欄にその成果を見ることができる。
ところで、最近の市販のソフトウェアを使っていると、このアメリカでのパンの経験を思い出すことが多い。つまり、最近のソフトウェアは無闇と外見を飾り立てているので、その旨さ(良さ)が直接伝わってこないような気がするのである。利用者は、見てくれや飾りなどの外見に目を奪われてしまい、そのソフトウェアの本当の良さが理解できずに終ってしまうのではないかといささか心配になるほどなのだ。
今、私が使っているコンピュータには、型通りワープロ、表計算ソフトなどの代表的なソフトウェアがインストールされている。成る程、それらはどれも素晴らしい機能を持っている。しかし、余りに豊富な機能、余りに華美な飾りに圧倒されてしまって、自分がその中に埋没されてしまいそうな気がしてくるのである。全体の機能が一体どのようになっているのか把握することすら難しい。時間をかけて詳しく習得しようとしても、すぐバージョンアップして次の版に乗り換えなければならなくなるのでその気も起らない。これらを初めて使う人は、一体どのように感じているのだろうかと、私は何時もその点に関心が向いてしまうのである。
私が初めて日本語ワープロなるものを使ったときのあの感激を、私は今でも決して忘れることがない。東芝の世界最初の日本語ワープロを使って文書を作ったときのことである。それまで、英語をベースにしたワードプロセッサは仕事でしばしば使っていたが、日本語文書をあれほど見事に作ってくれるものは存在しなかった。もちろん、その頃のワープロと今使っているワープロの機能比較をしたら、それこそ雲泥の差があって競争にはならないであろう。しかし、ワープロの日本語変換機能の素晴らしさと、完成して世に出たばかりの日本語ワープロを自分が今初めて使っているんだという感激とを、そのときひしひしと身に感じたものであった。
Apple IIで、VisiCalc を使ったときの感激も忘れられない。周知のようにVisiCalcというのは表計算ソフトウェアのはしりともいうべき歴史的に意味のあるソフトウェアである。これを初めて使ったときは、正直「やられた!」と思ったものだった。それまで、数値を含む表を作るときに苦労していたからだ。こんなものが手軽に使えたらさぞかし便利であろう。なぜ、自分がこれを最初に思い付かなかったのかと、ほぞを噛む思いをしたものである。
一般に、数表を作ること自体にはたいして手間はかからないのだが、合計欄の数値を間違えることがよくあったからである。会議などの場で資料を配布すると、中に意地悪な出席者がいて、真っ先に合計欄の値が正しいかどうかを検算することがある。事前にいろいろと数値をいじっていると、合計欄の修正を忘れることがままあるものだ。そうすると、たちまち間違いを指摘され、その結果、資料全体に対する信頼性がなくなってしまったりする。こんなソフトウェアがあれば、もうああいうミスは犯さなくて済みそうである。
もっとも、表計算ソフトの利点は、個々の欄の数値を適当に変えたとき、表全体がそれに同期を合わせて変わってくれるところにある(簡単にシミュレーションができるのである)。管理業務に就くようになってから、その有り難味は一段と強く感じるようになった。
こういったオリジナリティに溢れたソフトウェアを(最初にそれを開発した人とともに)我々はもっと大事にすべきではなかろうか。しかし世の中とは、そうは思い通りに行かないもので、それを真似て作られた二番煎じのソフトウェアの方が、結局は前者を駆逐してしまうのが常である。後発の方がちょっとした付加価値を付けて売り出すと、あっという間にそれに市場を奪われてしまう。VisiCalc は、MultiPlan にとって代られ、MultiPlan は Lotus 1-2-3 に取って代られ、Lotus 1-2-3 は Excel に取って代られてしまった。GUI(Graphical User Interface)の導入で一世を風靡した Macintosh も、結局は後発の Windows マシンにその市場を奪われてしまった。
このように、できたばかりのソフトウェアを初めて使ってみて(仕事の立場上、私にはそういう機会が多かったのである)、その特長的な機能に初めて出会ったときに経験するあの感激、新鮮な驚き、そしてある種の悔しさ(?)は、体験したことのない者には決して理解できないものかもしれない。
しかし最近のソフトウェアには、そういったものが感じられないような気がする。使い始めても、そのプログラムの真の狙い、真の良さが何なのか、直ぐには伝わってこないのである。
我々利用者は、初めてのソフトウェアに接したとき、そのプログラムの本当の良さ、特長をできるだけ早く見抜くことが大切である。飾りや見てくれに惑わされてしまって、オリジナリティ溢れる折角の機能を見落としている場合があるのではないか。ハンバーガーの具の中身の方に気を取られていたのでは、折角の旨いパンの出現を見逃してしまうかもしれないのである。■