素歩人徒然
素歩人徒然
(6)

りんご


── 本物のマッキントッシュ

 大きな社内便の封筒が、私のINPUTの箱に届けられた。開けてみると中に何やら大きな白いビニールの袋に包まれたものが入っている。小さい割りには結構な重さで、何か丸みのあるもののようだ。しかも冷たい。いぶかしく思いながら開けてみると、何と、小さなりんごが一つ出てきたのであった。これは一体何を意味するのだろう?

 封筒の中をあらためて覗いてみると、小さなメモ用紙が入っている。そこにはボストンにいるMさんからのメッセージで「これが本物のマッキントッシュです」と記されていた。あぁ、そういうことなのか。以前、マッキントッシュのことでMさんと色々議論したことが思い出された。なるほど、マッキントッシュとはこれのことなのだ。

 100グラム程の小ぶりのかわいいりんごで、日本の市場だったら到底商品価値がないと思われる程の大きさである。しかし、ボストンではスーパーマーケットならどこでも山積みになって売られているものなのだそうだ(10数個入っていて1$程度とか)。きっと、家庭でジャムにしたりジュースにしたりするのであろう。

 ところで、その議論というのはアップル社のあの有名なコンピュータの名前(マッキントッシュ)のつづりから始まったことであった。いろいろなつづりが存在していて、コンピュータの場合はどれが正しいかとかいう話だったと記憶している。“Mac”(Mcとも表記する)というのは周知の通り「息子」の意味であって、人名の前に付けて新たな名前として用いられてきた。したがってMacintosh(または、Mcintosh)というのはもともとは人名なのである。それが何らかの経緯でりんごの名前に付けられたのだ(イギリスのりんご“コックス”は、Cox氏が栽培したというから、多分同じようなことがあったのであろう)。

 したがって
   Macintosh
   Mcintosh
   MacIntosh
   McIntosh

など様々な表現が使われている。しかし人名だから普通の英和辞典にはめったに出ていない。

 コンピュータのマッキントッシュは「Macintosh」とつづる。初めてこの機種が発表された当座は、私はこれを人名だと思っていたので、なぜこんな命名をしたのか不思議でならなかった。しかしその後何かの折りにりんごのことであると知った。なるほど、本物のマッキントッシュを見ていると、あのちっぽけなコンピュータには相応しい名前のようである。

 松下重悳氏の「言葉の科学」(自費出版)によれば、マッキントッシュとは「青りんご」のことであると記されていた。しかしこの本物のマッキントッシュは見事な赤りんごである。りんごというのは、取った後で水を掛けて日に当てると赤くなるという話をどこかで聞いた記憶があるから、木から取った当座はまさしく青いりんごだったのかもしれない。

 折角いただいたマッキントッシュではあるが、果物だから直ぐいたんでしまうであろう。そこで私は写真に撮って保存することを思い付いた。丁度職場にデジタルカメラがあったので、職場の仲間に撮影してもらうことにした。そうだ、この機会に私の写真も撮ってもらおう。社内ではイントラネットが構築され、各人のホームページに自己紹介を兼ねて自分の写真を貼り付けている者が多い。私はどうもそういうのは苦手なので、写真の欄を空白のままにしていたのである。しかし、そろそろ何とかしなければならない頃合いである。

 かくして、手のひらにくだんのマッキントッシュを乗せた私めの写真ができあがったという次第である(私の個人ホームページを参照、と言いたいが現在は既に別の写真になっています。悪しからず)。この写真を見たMさんの言によれば、りんごは輸送中に熟してしまったのであろう、送る前より随分と赤くなっているとのことであった。

 ところで、このちっぽけなりんごを見て私は幼い頃のことを思い出した。終戦直前の頃、私は信州蓼科に疎開していた。食糧難の時代ではあったが、信州の田舎にはまだ結構食べ物はあった。何よりもよかったのは、りんご農園がそばに沢山あったことである。遊び仲間の子供たちと遠くへ遊びに行った帰りにりんご農園のそばを通ると、農園の主が声を掛けてきたものだ。籠の中のりんごを指さして、好きなのを一つもっていけというのである。当時は、鳴子とか国光と呼ばれる品種が多かったと思う。鳴子というのは、丁度いまのマッキントッシュ程の大きさで振ると種が鳴ると言われていた(本当のところは知らない)。紅玉などはすごく大きなりんごで高価であったと記憶する。

 農園の主に声を掛けられ大喜びした私たちは、早速に一つだけ好きなのを選び出した。中で最も年下だった私は、一番最後になって手を出した。そのときふと見ると、一つだけすごく大きなりんごが目にとまったのである。私は特別に欲張りな方ではなかったが(この点に関しては人により見解が異なる)、何気なくそれを手に取ったのであった。子供たちは歩きながら自分の戦果を互いに見せびらかし合った。すると、最も年下の私のりんごが最も大きいという事実が明らかになったのである。

 当然のことではあるが、これは最も年上の子にとっては、はなはだ面白くない状況である。結局、私のりんごはその子のと取り替えさせられてしまった。しかし皆で食べてみると、ざまあみろ! 彼のは虫食いだったのである。私はこのとき「悪いことをすると必ず報いが来る(因果応報)」ということを、大きな犠牲(注)をはらった上で学んだのであった。今だったら「大きな物には必ず“虫”がいる」とかいうソフトウェアの教訓を、迷わず引き出したことであろうが。

【注】大きな犠牲とは、つまり大きなりんごと小さなりんごの差の分のことである。‥‥やっぱり私は欲張りなのかなぁ。

 さて、くだんの本物のマッキントッシュを家に持ち帰った私は、ひとわたり家人に見せびらかした後、これを食し、これを味わい、これを子々孫々までの語り草にしようと試みた(大袈裟な)。食べてみると、本物のマッキントッシュは甘酸っぱい野生味のある味であった(思った程には酸っぱくない)。

 そうして、後には5粒の種が残された。何事も徹底してやることを身上とする私は、植木鉢に土を入れそこに5粒の種を丁寧に埋め込んだのである。そして土に水を掛けながら思った。来春、芽が出てきたらいずれ庭に移し替えてやろう。そして、いずれは庭にマッキントッシュの大木を繁らせてやろうと。■