素歩人徒然 柿 実現の可能性について
素歩人徒然
(8)



── 実現の可能性について

 りんご(マッキントッシュ)の種を鉢に植えて木に育てようとしている話(本欄「りんご」参照)を書いたところ、Ma氏から「残念ながら木にはなりませんよ」と教えられた。マッキントッシュは、接ぎ木や挿し木で増やしていくものなのだそうである。
 マッキントッシュに限らず、りんごはクローンを作ることによってその子孫を増やしていくのだという。クローンとは、同じ遺伝子からなるものを無性生殖で増殖していくことである。つまりコピー植物を作るのだ。IBM−PCのクローンを作りたければ、部品を買ってきて組み立てればよいのであって、インテル互換CPUの論理設計(つまり種)から始めても成功はおぼつかないということなのであろう。

 一方、種から芽が出て木にまで成長する植物も多い。これを実生(みしょう)という。柿などはこの部類に属するのであろう。我が家の庭には、捨てられた種から芽が出て立派に成長した柿の木が3本もある。しかも、立派に実まで付ける。禅寺丸柿(注1)というらしい。ただ、実生から育ったためなのか渋柿で、そのままでは食べられない。接ぎ木をすればよいことは分かっているが、不精者の私はそんなことをする気はまるで起こらない。
【注1】禅寺丸柿(ぜんじまるがき)は、川崎市麻生区の特産品であり、区内の王禅寺には原木といわれる木が残っている。禅寺丸柿から作られたワインは「禅寺丸」の名で売られている。

 ところが、あるとき妻が近所の家の甘柿の枝をもらってきて接ぎ木を試みた。するとどうだ。どうせ成功などしないだろうと思っていたのに、しばらくして気が付くと何時の間にか甘柿になっていたのである。なるほど、理論通りにやればなるようになるものなのだ。私は妻の腕前にすっかり感心してしまった。

 もっとも、甘柿になったといってもちっぽけな実ばかり付けるので、沢山実が成っても取る気にはならない。熟して落ちるか野鳥に食われるかにまかせていた。しかし妻はそれを取ってほしいという。妻にせかされ仕方なく、私はその甘柿を“渋々と”取ることになった。こんな小さな柿を苦労して取っても、誰も食べる気にはならんぞ‥‥などと思いながら。

 妻は、この柿の実を薄くスライスしてサラダにしたりあえ物にしてくれる。ところが驚いたことにこれが実にうまいのである。あえ物などは、以前高級割烹料理店で食べたものとそっくりで、まさに絶品の味といってよい。それを知ってからというもの、私は柿が熟してきた頃合いを見計らって“渋々”ではなく“いそいそ”と柿を取るようになってしまった。鳥に食われてなるものかという訳である(現金なものだ)。もっとも、妻がいうには、中には渋いのも混じっているのだそうである。約70%程度のものが甘いという。不思議な柿の木になってしまった。やはり、現実には理論通りにいかないこともあるらしい。

 という訳で、庭に柿の木ばかりでなくりんごの木も繁らせたいという私の愚かな夢は、はかなくも露と消えたのであった。もっとも(負け惜しみに聞こえるかもしれないが)私が本気で自分の家の庭にマッキントッシュの大木を繁らせようと夢見ていた訳ではない。ボストンのあの寒冷の地に根を降ろしていたものが、この暖かい川崎の地(私の住んでいる場所である)に根づくとは到底思えないからである。鉢から芽が出てきたらそれは楽しいことだろうと、ただそれだけを想い描いていたのである。

 人は常日頃からいろいろな夢を抱く。広い庭にプール付きの豪華な家を持ちたい。ゲームソフトで一発当てて巨万の富を築きたい。未解決の数学の難問を解決して一夜にして自分の名前を世界に知らしめたい。仕事を成功させて出世したい。1ヶ月間の連続休暇を取って海外旅行をしたい。いちご大福をたらふく食べたい。‥‥。

 思うに、こういった自分の夢が実現してしまうと(注2)、人は目標を失って案外がっかりしてしまったりするのではないか。むしろ、自分の夢を実現させようと努力する過程に意味があるのだ。いや、努力など何もしないでただ夢見ているだけでもよい。人の抱く夢には、そういう類のものもあるのではないかと思う。
【注2】断っておくが、私の場合で実現する可能性のある夢といえば、まぁ、最後のものくらいであろう。

 しかし、仕事に関わる夢ではそうはいかない。ただ、成功を夢見ているだけでは困るのだ。技術的に見て成功する可能性のない夢を、いくら追求したところで、それは金の無駄遣い以外の何物でもない。我々は何かプロジェクトを提案する場合に、前もってしっかりとその実現可能性の調査(feasibility study)を行っておく必要がある。そして、僅かでも実現の可能性があれば、それは果敢に挑戦する価値があると言えよう。しかし技術的な興味のためだけで、実現の可能性も見えず、商売としてもペイしないものの開発に夢を託すのは、技術者として決してやってはならぬことであろう。つまり、技術者はりんごの種に水を掛け続けてはいけないということである。

 Ma氏は、愚かな私を気の毒に思ったのであろう「ブリタニカには、マッキントッシュの種から芽が出ないとは書いてありませんよ」と慰めてくれた。私はその言葉に賭けてみようと思う。ひょっとすると、ひょっとするかもしれないではないか。私はマッキントッシュの鉢を相変わらず窓際の日当たりの良い場所に置いて、ときどき水を掛けたりしている。家人は、そんなに水を掛けたのでは出る芽も腐ってしまうという。まぁ、夢なんだからいいではないか。夢なのだ。そう、私の夢なのである。

 もし私が、庭にマッキントッシュの大木を繁らせたいと本気で思ったとしたら、私は躊躇なくボストンの友人にメールを送り、「社内便の袋にマッキントッシュの苗木を入れて送って欲しい」と依頼することであろう。しかしそれでは、余りに“夢”というものがないではないか。■