素歩人徒然 外出時の身支度 特製マスクとメガネによる自衛
素歩人徒然
(100)

外出時の身支度

素歩人徒然も、とうとう100の大台を超える回まできました。最近はコンピュータと関係のない話題が多くなったようですが、まだまだ続ける積りです。



── 特製マスクとメガネによる自衛

 杉花粉の飛ぶシーズンもそろそろ山を越える頃ではないかと思う。
 最近の私は、外出に際して、リストアップしたメモを用意しておかないとつい忘れてしまいそうになるくらい色々な準備作業が必要となっている。それを逐一ここで紹介する積りはないが、その中でも特製マスクを用意して着用することだけは決して忘れないように注意している。このシーズン、私にとっては必須のものなのである。

 「かぜ、花粉、ほこりを99%カットする」と称する使い捨てマスクを二重にして着用する。これにより99.99%位まで異物をカットできるのではないかと期待してのことである。
 もっとも、マスクを二重にしてもカット率は99%のままだと主張する人がいるかもしれない。最初のマスクを一度通り抜けてしまった異物は、次のマスクでもそのまま100%通過してしまうという可能性もあるからだ。しかしカット率というのは、不織布から成るフィルターの繊維状の部分に異物が引っ掛かるかどうかの確率の問題と考えれば、再び99%はカットされるのではないかと私は思うのである。事実、マスクには不織布の繊維が樹木の枝のように複雑に張り巡らされていて、異物が少しでもそれに触れると枝に貼りついてしまうような構造になっている。

 更に私は、二つのマスクの間にウェットティッシュを一枚、四つ折りにして挿入することにしている。これでカット率は更に増すのではないかと思う。多分(超楽観的に見て)99.995%位にはなるのではないか。これで、普通の人よりは格段に性能の良い特製マスクをしていると(密かに)自負しながら外を歩いているのである。

 実はマスクを二重にすると更なる利点がある。マスクが少しきつくなり顔面にぴったりと装着されるので、少し動いたくらいでは隙間が生じることがない。普通にマスクをしているだけの人を見ると益々気の毒になってくるのである(これ、全くの独りよがりですけどね)。

 今年は花粉症の症状がまったく出ていないから、これで効果があったのであろうと思っている。ただし眼のかゆみの方だけはどうにもならない。花粉除けのメガネを購入して外出時のみ着用しているのだが、マスクから漏れる呼気のためにガラス面が直ぐ曇ってしまって前がよく見えなくなる。結局メガネなしで歩くことになってしまう。これは失敗であった。
 ただ、ウオーキングの際だけは役に立っている。多摩川の河原に出てサイクリングコースを歩く時は虫除けになるからである。啓蟄の日以降の暖かい日で、かつ風がない日は大量の虫が飛び交っていて(何という虫かは知らぬ。蚊柱のもっと大型のものである)両手で追い払おうとしても「全くの無駄」と最初から直ぐ分かるくらい大量に押し寄せてくるのだ。その中をジョガーやサイクリスト達が必死の形相で走り抜けて行く。中には目をつむって走っているものもいる。私もその時だけはメガネを着用して何事もないような顔をして歩いている。メガネなしの人達が気の毒になるくらいのものだ。

 最近は、黄砂や PM2.5と称される異物が西の方の国から飛んでくる。世間では PM2.5 で大騒ぎしているが、昔の日本の公害騒ぎの際にも飛び交っていたはずである。PM2.5 は、煙草の煙の中にも含まれているという説があるから、それが正しければ私などは長年の会社勤めの間に受動喫煙でしこたま吸いこまされ、ずっと被害を受けてきたことになる。私の特製マスク程度では今更どうにもならないけれど、だからといって着けないですます気にもなれない。

 帰宅すると、玄関を入った所であらかじめ用意しておいた掃除機を作動させ、衣服に着いた異物を除去する。ウオーキングから帰った後は特に念入りに行うことにしている。今はやりの用語を使えば「除染」を行っているのである。普通の掃除機による除染では、たとえ花粉を吸い取ったとしても、フィルターを通過してより細かくなり再び部屋中にまき散らされるのが落ちである。私の使っている掃除機はフィルターとして水を使っているので、異物はすべて水の中に捕獲される。毎朝前日に使ったフィルターの水を取り替えるのだが、細かい砂が驚くほど沢山含まれていて除染の効果を実感できる。これを見たら誰もが驚くに違いない。普通の掃除機を使っている人は、生涯この事実を知らずに過ごすことになるのだろう。恐ろしいことである。
 このように水ほど素晴らしいフィルターはないと思うのだが、取り扱いが面倒なためであろうか掃除機で採用しているメーカーは少ない。こうして色々と工夫し、個々人で自衛するしか方法がない厳しい環境に我々は住んでいるのである。