素歩人徒然 痛みについて しっぽの痛み
素歩人徒然
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痛みについて


── しっぽを踏まれた時の痛み

 私は毎日ウォーキングをしている。腰部脊柱管狭窄の影響で足裏にしびれがあるので、まるで砂利道を素足のまま歩いているような感じのウォーキングである。正直に言うと、もはや“しびれ”ではなく“痛み”と言ってもいいくらいの状態なのである。しかし、できるだけ痛いという事実を忘れて、自然の姿勢のまま歩くよう努めている。

 最近は、その砂利の中に“”が混じっているのではないかと思う程の痛みに突然襲われることがある。そういう時は少し歩幅を狭めてゆっくりと歩くけれど、基本的にはそのまま歩き続けることにしている。決して立ち止まったりはしない。そうしていると、次第に“釘”の痛みは弱まっていく。

 これまでの自分の人生の中で学んだ貴重な教訓の一つは、こういう状態のとき、たとえ「痛い!」と声に出して訴えても決して痛みが軽減されることはない、という厳然たる事実である。もし効果があるとすれば、それはストレス発散ができるという程度のことであろう。

 もし足を怪我している場合の痛みなら、歩き続けるのは多分難しいだろうと思う。しかし脊柱管が狭くなっていてそこを通る神経が圧迫され、その刺激が脳に伝えられているだけだと考えれば少しは気が楽になる。問題は、脳がそのノイズを「痛み」の信号と錯覚しているだけのことなのだ。だから私は「これはノイズだ!」「ノイズだ!」と自分自身に言い聞かせつつ我慢して歩いているのである。
 そしてその間に、自然と「痛み」というものについて考える機会が多くなっていった。

 事故で足を失った人が、今は存在しないその足の特定の部位に「痛み」を感じるという話を聞いたことがある。このことは、実際に痛みを感じるのはその特定部位ではなく、脳の方で感じているということを明白に示している。

 人類はその昔、尾を持っていたと言われている。もし尾があって、それを踏まれたりしたらさぞかし痛いことであろう。進化の過程で失われた尾の神経の一部が、もし今の人類の身体にまだ残っているとすれば、事故で失われた部位が痛むのと同じように「尾を踏まれた痛み」を我々は体験できるのではないだろうか。つまり、今は存在しない部位であっても「痛さ」を通じてその存在を確認できるのではないか、などとしょうもないことを考えながら歩いているのである。

 ところで、あなたは「しっぽの痛み」を感じたことがありますか?
 えっ? そんなの感じたことはない?
 そうでしょうね。今まで一度も尾を踏まれた経験がありませんからね。しかし私は子供の頃から何度も経験しているような気がするのです。いじめにあって、しっぽを踏まれた経験が。

 身体のどこが痛いかその部位を具体的に示せない場合、子供はとりあえず「オナカが痛い」と言ってやりすごそうとする。しかし大人になると、その種の痛みのことを「心の痛み」と呼んで区別する智恵を身に付ける。したがって、大人は無闇に「痛い」と言わないで我慢することができるのである。
 しかし、最近のいじめ問題のことを考えると、あれは「しっぽの痛み」と呼んで区別するべきではないかと思う。そうすれば、子供達はもっと具体的に痛みを訴えやすくなるのではないか。

 自分の心の痛みが分からない人は、しょせん他人の心の痛みなど理解できないと言われている。私もこの際一度、自分の「心の痛み」… いや「しっぽの痛み」と向き合ってみようと思う。

 「痛っ!」 また“釘”だぁ!