素歩人徒然 銃規制 銃規制に対する考え方の違い
素歩人徒然
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銃規制


── 銃規制に対する考え方の違い

 家の近くにアメリカ人一家が住む家がある。我が家の孫達と同学年の子がいるので普段から家族ぐるみの付き合いをしている。偶々その家の前を通りかかると、車が3台は入るかと思われる広いガレージにビニール製プールを用意して大勢の子供達が水遊びに夢中になっていた。水鉄砲で水を掛け合って楽しそうに遊んでいる。

 そう言えば去年の夏もやっていたのを思い出した。夏の恒例行事となっているのだろう。昨年は我が家の孫達にもご招待のメールが届き、母親同士も一緒になって参加し水遊びや食事会などで楽しんでいたようである。その招待メールには“Water Gun”を持参するようにと書き添えてあったので、入浴時の遊び道具であるピストル型の水鉄砲を持たせたのであった。しかしその結果は散々なものであったらしい。彼らアメリカ人の子供達は大型の水鉄砲を持っていて、小さなピストル程度では到底太刀打ちできず、散々にやられてしまったらしい。その上、彼らの叫ぶ英語が理解できず、孫は「もう、行きたくない」と言いだす始末であった。今年もその季節がやってきたのである。

 帰宅後、母親(私の娘)にその話をすると、今年も既に招待状が来ていると言う。更に「今年はもう用意万端整っているから」と言って見せてくれたのが、あらかじめ買って用意してあるウォーター・ガンの包みであった。
 私はこの時初めて“ウォーター・ガン”というものを見た。ピストルとは異なり長さ60センチ以上もある機関銃のような代物である(下図参照)。

ウォーター・ガン

 これを持たせれば、かなり派手なガン・ファイトが期待できそうである。しかし待てよ。小さい子供の頃からこういう遊び方を教えるのは如何なものか。甚だ疑問に思えてきた。

 私はクレームを付けたくなってきた。「日本には銃規制がある」「こういう遊び方はやめた方がよい」と言ってやれ… いや、孫はそんな難しいことは言えないなあ。「郷に入りては郷に従え」… これも尚更言えないなぁ〜 などと考えて、結局は何も言わないことにした。

 日本で子供達が水鉄砲で遊んでいても、それに対し目くじらを立てる人はいないであろう。アメリカ人にとってのウォーター・ガンは、日本の水鉄砲程度の感覚なのではなかろうか。クレームを付けたりしたら逆に笑われることになるかもしれない。

 子供はおもちゃが大好きである。しかし大人が用いる道具を模したおもちゃに限っては、すぐ飽きてしまい必ず本物の方を求めるようになる。目が肥えているのだ。おもちゃのケータイ電話などは直ぐ見向きもされなくなり、親の持つ本物のケータイやスマートフォンの方を使いたがるようになる。最近はスマートフォンを大人よりも器用に使いこなしていたりする。

 アメリカの子供達も同様であろう。おもちゃのガンなど直ぐ飽きてしまって本物のガンを欲しがるようになる。それに対し、誕生日のプレゼントと称して本物のガンを買い与える親がいるらしい。その結果、子供が操作を誤って銃を暴発させてしまうような事故が頻発しニュースとなっているから驚きである。こういうアメリカ社会の実情を知っていたので、私はそのニュースを聞いてもそれほど驚いたりはしなかったが。
 一度強力な武器を持つと子供は決してそれを手放そうとしない。もし手放すことがあるとすれば、それはより強力な代替の武器を手に入れたときに限られる。

 私は、技術者としての仕事でアメリカで長く暮らすことになったとき、銃社会であるアメリカで生活する際の注意事項をいろいろと勉強した。たとえば(念のため記しておくが、真偽の程は保証しない)、

アメリカ人は大抵銃を所有している。しかし「銃を持っているか?」と聞かれたら、たとえ持っていても「持っていない」と答えるものだ。だから聞いても無駄である。

大抵、家には複数の銃が置いてある。いざという時のために実弾を装着して何気ない場所、たとえば引き出しの中などに隠してある(だから、子供が偶然発見しておもちゃにしてしまうのだろう)。

子供が銃を弄んでいる場面に出くわしたら、無邪気に銃口を自分の方に向けられても決して大声を出したり騒いだりしてはいけない。別の方角にある適当な標的物を指さして「あれを狙ってごらん」と落ち着いて声を掛ける。

 ・・・・・

 こういう知識が役に立つのかどうか、それは分からない。しかし少なくとも私は、そういう知識を活用しなければならない場面に遭遇しなかったのは幸いだったと思っている。ただ、一度だけ怖い思いをしたことがあった。
 それは私がアリゾナ州フェニックス市に住んでいた頃の話である。アパートの庭には大きなプールがあって、そのプールサイドである晩アパートの住人達が集まってバーベキュー大会を開いたことがあった。酒がまわってきた頃、住人の一人が自分の部屋から銃を持ちだしてきて、ガンベルトから取り外し手でもてあそびつつ他の住人に見せびらかし始めた。自分の立派な銃を自慢したかったのであろう。それを見た瞬間、私は恐怖で背筋が寒くなったのを今でもありありと思い出すことができる。

 私は西部劇映画が大好きだったので、それまで銃を見てもそれほど恐ろしいものだという実感がなかった。アリゾナは西部劇の本場であるから、普段から銃を持っている人がいても驚くことはなかったはずなのだ。プールサイドに私の1歳になる娘がいたこともあるが、その時今まで経験したことのない恐怖を感じたのである。多分この恐怖心は、所有者の男がどういう人か(有り体に言えばどこの馬の骨か)その素性が分からないことから発するものであろう。銃が怖いのではなく、それを操作する人の性格が分からないから怖いのである。

 最近は海外旅行が盛んで、遊び、留学、あるいは仕事で気軽に海外に出かけていく時代になっている。そして渡航者が銃がからむ事件に巻き込まれることも多い。そういうニュースが報じられる度に、銃社会での危険性を彼らがあまり意識していないのではないかと危惧するのである。

 アメリカでは、銃規制に反対する全米ライフル協会の存在が有名であるが、それだけではなく一般のアメリカ人に「自分の命は自分で守る」という意識が強いのも事実である。それが銃規制の実現を妨げる最大の要因になっているように思えてならない。銃による悲惨な事件が起こるたびに銃規制が話題になるが、結局は反対論が大勢となり、その度に銃砲類の売り上げが増すという現象が繰り返されている。

 特にアメリカ南部や西部では、隣家が数百メートル離れているという家はざらである。そういう家に住んでいて、もし強盗に押し入られたら、他人の助けを期待することはできない。自分で自分と家族の命を守らなければならないと考える人が多いのである。そういう人は、銃を所持できれば私がプールサイドで感じた類いの“恐怖心”を克服できると信じているのであろう。
 しかし東部の大都会に住む人々はまた違った考え方を持っているのではないか。アメリカは広い。住む場所によってそれぞれ異なる考え方の人がいて、それらを一つにまとめるのは極めて難しい。

 ところで、後で確かめたところでは、我が家の孫達はアメリカ人の子供とはウォーター・ガンによる対等のガン・ファイトができたそうで満足している様子だった。めでたし。
 しかし、もうピストル型のチャチな水鉄砲には全く関心を示さなくなっていた。

 銃と核兵器の規制の難しさには似たところがある。銃規制の方法として一人が所持できる銃の数や性能に制限を加えても、それが完全な銃規制の実現につながるとは到底思えない。オバマ大統領は戦略核弾頭を1000発まで削減する方針を表明しているが、これも同様に核の廃絶に結びつくとは思えない。人類は、一度手に入れた武器は決して手放そうとはしないからである。

 我々はそういう中で生きていくためには、お互いに相手の素性を知り、信頼関係を築く以外に方法はないのではと思うが、どうであろうか。…… 少し話が大きくなり過ぎてしまった。この位にしておこう。