素歩人徒然 ぶどう モジュール分解の極意
素歩人徒然
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ぶどう


── モジュール分解の極意

 先の「柿」の話(先号の本欄参照)を読んだボストンにいる友人M氏からメールをいただいた。イスラエルに出張した折に、種なし柿を食べたのだそうである。「今度は種なし柿を研究されたらどうですか」と彼は言う。偶然に種のできなかった柿なら私も出くわしたことはあるが、もともと種のない柿などというものが存在するとは知らなかった。なるほど、世の中には色々と変わった食べ物があるものだ。

 M氏から“種なし”という話のネタをもらったので、今回はこれを話の取っ掛かりにするとしよう。

 種なしと言って直ぐ思い浮かぶのは、何といっても「種なしぶどう」であろう。私は、特に種なしぶどうが好きなのだが、これは一年の内で食べられる時期が限られていて、ある時期を過ぎるともう手には入らなくなる。ぶどうは好きだが種を出すのが面倒で‥‥という人は多いと思う。そこで、ここでは「ぶどうの上手な食べ方」についての講釈を試みることにする。

 大抵の人は、私がぶどうを食べている様子を見るとびっくりするに違いない。私が種を出さずに食べるからである。山梨などのぶどう産地の人たちは(確かめた訳ではないが)普通種を出さずに食べるという。その方がうまいのだそうである。多分、種のまわりの苦味を味わわずにすむからであろう。子供の頃、私はぶどうの種を飲み込むと盲腸炎になるぞとよく言われたものだ。もしそれが事実なら、山梨県人は特に盲腸炎にかかりやすいことになってしまう。しかしそんな話は今まで聞いたことがないから、まずは安心して種を飲み込むがよい。

 しかし私の場合は、よく見ると分かるけれど、実は種は飲み込まずに出しているのである。私が食べたぶどうの皮の中に、種だけがちゃんと残されているのを発見すると大抵の人は驚嘆する。そして、どうやってそんな器用な食べ方ができるのか、是非とも方法を教えてほしいという。なに、簡単なことなのだ。ぶどうの粒を口の中に入れて押しつぶすやいなや、素早く種だけをもとの皮の中に戻すのである。こう説明すると大抵の人はなお一層驚嘆する。

 馬鹿なことを言ってはいけない。そんな器用な真似が私にできる訳がない。実は、口の中でぶどう粒から中身を押し出した後、次のぶどう粒を口に運ぶまでの間に(十分に時間はあるはずだ)種だけを選り分けて舌の先端部分に乗せておく。そうしておいて、次の粒を口中で押しつぶした瞬間に、その残った皮で舌の先端に残されていた種を素早くつまみ取る。そうすると、皮につつまれた形で種を何の苦もなく取り出せるという訳である。素晴らしい技術ではないか。

 このスマートな(?)食べ方の技術を教えてあげると、大抵の人はなんだという顔をする。そして、そんなのは特別な技術でも何でもありはしないと悪態を付く。確かにそうかもしれぬ。所謂ノウハウなどというものは、大抵はこんな程度のものなのであろう。技術という程の内容ではないが、それを知っているとスマートな食べ方ができるという、いわば“コツ”なのである。貴方(女)も一度試してみるがよい。しかし人には教えぬ方がよろしかろう。何となれば、世の中にはときどき意地悪な人がいて、貴方(女)にこう質問をぶつけて来るかもしれないからだ。「ところで、一番最後の種はどうするの?」

 しかし、運悪くそういう質問を受けてしまった場合には、少しも騒がず、食べ散らかしたぶどうの皮の残骸の中からこれ以上はないという程きたならしいやつを一つ選び出し、「これ、貸してあげるよ」と言えばよろしい。大抵の人はその皮を見て辟易し、それ以上くだらない質問はしてこなくなるであろう。

 さて、本稿の目的はぶどうの上手な食べ方を紹介することであった。しかし私はこのような高度な(?)食べ方のコツを伝授したかった訳ではない。私が議論の対象としたかったのは、ぶどうの房の中のどの粒から食べ始めたらよいかという点なのである。

 この問題は、子供の頃よく遊び仲間の間で議論した記憶がある。ある男は「自分は一番うまそうなところを残しておいて、最後に食べる」と言う。そこで私は「いや、俺なら一番うまそうなところから食べ始めるなぁ」
「でも、それでは最後にまずいところが残ってしまうと後味が悪いじゃないか」と彼は主張するのであった。

「すると何ですか、君はまず一番まずそうな粒を最初に食べるんですね」
「そうだよ」
「そうですか。すると君は、次には、残ったものの中から最もまずそうな粒を選んで食べる訳ですね」
「うん‥‥」
「その次にも、最もまずそうなところを‥‥。そして、その次にも最もまずそうな‥‥」
「‥‥」

「俺なら、最初に一番おいしそうな粒を食べて、次に残ったものの中からまた一番おいしそうなものを食べて、次にまた一番おいしそうなものを食べるなあ」と私は主張したのであった。

 この議論に勝ったのは、もちろん私の方である。この二つの食べ方を比較した場合に、同じぶどうでもどちらがよりおいしく食べたかは明白であろう。

 ところで、皆さんは「おいしい仕事」というのをご存知だろうか。労せずしてできて、しかも高い利益を上げられる仕事のことを我々は普通“おいしい仕事”と呼んでいる。しかし残念なことに、我々のまわりにおいしい仕事などそうそう転がっているものではない。だから誰でも何か仕事を選ぼうとする場合には、できるだけおいしそうに見える仕事を選ぼうとするものである。我が尊敬する大先輩Ma氏のように「二つ道があったら険しい方の道を行くのが私の人生哲学だ」と言える人は、極めてまれだと思うのである。難しい仕事を多人数でやる場合でも、自分だけはできるだけおいしそうに見える部分を担当しようとするのが我々凡人の普通の生き方ではなかろうか。

 仕事の上でも、この「一番おいしい部分から食べ始める」という手法を適用すると、どんな難しい(まずそうな)仕事でも最終的にはおいしそうな仕事に変身させることができるから不思議である。

 どんなに困難に見える仕事でも、まず一番やさしく(おいしく)見える部分を見つけてそこから取り掛かるとよい。残りの難しそうに(まずそうに)見える部分はとりあえず放置するか、あるいは他人に押し付けることにする。しかし、そうそう押し付けられる他人がそばにいる訳ではないから、次にやさしく見える部分を見つけて、そこを次に食べることにする。そうやって、やさしいところ、やさしいところ(つまり、おいしそうなところ、おいしそうなところ)という具合に、少しずつ少しずつ全体を解きほぐしていくのである。

 こうすることによって最初は困難に見え、自分の実力では到底解決できそうになかった問題も、いつしかやさしいおいしそうな仕事に変化していくのである。ソフトウェア設計で必要となるモジュール分解の極意は、実はこの「ぶどうの上手な食べ方」にあったのだ。この手法を適用すれば、最初は一枚岩のように見えた困難な大問題も、いつしか食べやすい手頃な大きさのモジュールに分解可能となる。モジュール分解の場合に限って言えば、決してMa氏のやり方を採用してはならないと言えるのではなかろうか。

 ただ現実には、おいしそうに見えていても実際に食べてみるとおいしくなかったということがまま起り得る。したがって、あわてて直ぐ食べ始めたりはしないことである。全体を解きほぐしていって、やはり一番おいしそうだと見極めがついてから、個々のモジュールを実際に食べ始める(つまりコーディング化、実装化し始める)とよい。どうです、貴方(女)も一度試してみませんか。いえ、ぶどうを食べることの方ではなく、モジュール分解の方法のことですよ。■