素歩人徒然 床屋 アメリカ 新しい環境と用語
素歩人徒然
(16)

床屋


── 新しい環境と用語

 床屋で髪の毛をカットしてもらいながら、ふと考えた。
 日本の床屋では、客はこうして大きな鏡に向かって座り調髪をしてもらうが、アメリカでは逆に鏡に背を向けて座る習慣になっている。一体どちらがより合理的なのだろうか。

 私がまだ二十代のころ、数ヶ月の予定でアメリカに出張したことがあった。数週間程度の出張なら床屋の世話になることもないが、数ヶ月という長い滞在ではそうもいかない。聞くところによるとアメリカの床屋では、調髪だけでなく爪の手入れとかいろいろなサービスがあり、それぞれにチップが必要であるという。しかもそれぞれのサービスが日本よりもはるかに高額なのだそうである。髪の毛をカットしてもらうだけでも、いろいろと気を使わねばならぬことが多くて気が重いことではあった。

 滞在も1ヶ月近くになり、いよいよ床屋へ行かねばならぬ頃合いとなった。仕事先のアメリカ人の仲間に聞くと、チップのいらない床屋があるという。やれうれしや、と私は早速その床屋へ行ってみることにした。

 目指す床屋を捜し当てると、私は恐る恐る店内へ入っていった。日本の床屋よりもはるかに大きくて広い。大きな鏡の前に椅子がずらっと並んでいて、それがすべて通路側を向いている。その一つに座った私は、決して聞き間違いの起こらないようゆっくりと、そして明確に“Just a hair cut!”と言い放ったのである。それ以外のサービスは一切不要であると最初に宣告したのであった。

 頭髪のスタイルについて自分の好みを床屋に説明するのは難しい。ましてや、英語でやらねばならぬのである。もともと私は、髪の毛のスタイルに凝る方ではなかったから適当にやってくれればそれでよかったのだ。しかしあまり短くされてしまっては困る。“Short cut”などと言ったがためにGIカットみたいにされてしまっては一大事である。ショートカットという言葉の意味が、日本と同じ定義になっているとは限らないからだ。実は私は、ショートカットとはアメリカではGIカットのことを指すとどこかで事前に吹き込まれていたのである。だから“Short cut”という言葉は絶対に口にすまいと心に決めていた。そこで私は、あまり短くされないよう“Don't cut so much”などと言っては時折警告を発することにした。

 さて本題の鏡のことであるが、椅子に座ってみると通路をはさんで自分の向かい側の壁に小さな丸い鏡が掛かっていることに私は気がついた。そこに自分の顔と、更にその奥に大きな鏡に映った自分の後頭部が見える。なるほど、こういう仕掛けになっていたのか。客には、自分の後頭部の様子が常に見えるようになっていたのである。こうしてみると日本の床屋では、常に正面の自分の顔しか見えないから、なんとも不合理なことのように思われてきた。すべての調髪が終わってから手鏡などで後頭部を見せられても、注文をつけるにはもはや手遅れだからである。

 もちろんアメリカの床屋の中にはこういう合わせ鏡を備えていないところもある。それでも、大きな鏡に背を向けて座るという習慣に変わりはない。これは多分こういうことではないかと思う。つまり床屋は、調髪のでき具合を確かめるためときどき少し離れて全体を見る必要がある。しかし二三歩離れなくても、ちょっと横を見れば大きな鏡の中の丁度頃合いの位置に、客の後頭部が映っているというわけだ。同じ鏡であっても、アメリカでは(もともと使用目的が異なり)客のためではなく床屋自身のためのものだったのである。

 その後も2年近くアメリカに滞在する機会があったけれど、床屋にはやはり苦労をさせられた。いつもいつも“Don't cut so much”などと言っていると、次第に自分の髪の毛の量が多くなってきてしまうからである。私はもともと髪の毛の量が多い方だったので尚更であった。そうかと言って“Short cut”という言葉は絶対に口にしたくない。
 ここで“髪の毛の量が多い”と書いたが、これは髪の毛の長さのことではなく密集度のことである。こんなことを書くと、ある種の人(*1)からは「それは嫌みである」と言われかねないが、まあ話の成り行き上必要なのだからここは許していただこう。
【注】(*1)“ある種の人”とは、最近のアメリカ的表現を借りれば、髪の毛にある種の不利益を被っている(hair disadvantage)人のことである。

 髪の毛が多くなると、普通は床屋に髪の毛を“すいて”もらう。つまり髪の毛の長さを切り揃えないで、ランダムな長さで間引いてもらうのである。この「すく」というのを英語でどう表現したらよいのか、私には分からなかった。手持ちの辞書を調べても出ていない。「長さがランダムになるように切ってくれ」などと注文するのは、とら刈りに仕上げられた自分の頭が想像されて、どうしても私には言い出せなかったのである。

 滞在が1年近くにもなると、もう私の頭は大変な量の髪の毛で覆われてしまっていた。ボストンの下町にある床屋で調髪してもらっていたときのこと、私の頭を前にして床屋の主人がため息をつくのであった。彼らは日本の床屋にくらべて(はっきり言って)不器用である。髪の毛をカットするにも鋏ではなくバリカンで直接やるのだ。そのバリカンが、私の髪の毛で目詰まりをおこしてしまっている。東洋人の髪の毛はどうしてこんなに硬くて量が多いのだろう、と心の中でぼやいていたことであろう。それでも私は「すいてくれ」という意味のことをどうしても言い出す勇気がもてなかった。ぜんたい、彼らにそういう技術があるのかどうかさえ疑っていたのだから。

 その後日本に帰ってから、ある英語の達人に恐れながら‥‥と教えをこい「すく」という言葉の英語表現を教わった。やはり彼の地にも「すく」という技術はあったらしいのである。しかしこの用語を使う機会がないうちに、すっかり忘れてしまった。どこかに書き止めておいたはずなのだが‥‥(*2)

【注】(*2)“すく”というのは、英語では“thin out”と言う。“thin out my hair”とか、既に髪の毛を話題にしているときは“thin it out”などと表現すれば通じるらしい(ただし、とら刈りにされても私は責任を負えません)。
 もっとも、私にはもはや再びこの言葉が必要になることはあるまいと思う。誤解のないように記しておくが、私に必要でない理由は、再び長期間アメリカに滞在することはなかろうという消極的な意味合いから言っているのではない。もはや「すく」必要性の方がなくなりつつあるからである(ある種の人からは、これすらも“嫌みじゃ”と言われかねないが)。

 さて、この話から何か教訓を得るとすれば、それはこういうことではないかと思う。新しい環境に慣れるには、早くその環境で使われている用語の意味を理解し、それを自由に使いこなせるようになることが先決である。その環境では、ある用語が別の言葉で表現されているかもしれない。同じ用語でも使用目的が異なっているかもしれない。

 たとえば、OAシスコンなどの東芝独自(東芝プロプライエタリ)の世界で長年育ってきた人が、UNIXなどのオープンな世界の技術に初めて触れたとき、大抵の人は新しい環境が理解できず、ついていけないと感ずるものである。しかし技術の根底にある考え方というものはほとんどが共通しているものなのだ。
 単に用語の意味や使い方が異なっているだけかもしれない。“とら刈り”になることを恐れずそういった新しい用語の吸収に努め、“鏡”の使い方を間違えないようにして、それを自分なりにうまく使いこなせるようになることが最も重要な点ではないかと思う。「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように、まず用語に慣れることが、新しい環境にすんなりと入っていけるようになるための秘訣ではないか。私は、昔のつたない経験からそう主張したいのである。■