国葬 素歩人徒然 ロンドン橋落ちた エリザベス女王 女王崩御 葬送行進曲 knuhs
素歩人徒然
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国葬


── 行進曲を聴いていると感動する?

▼ロンドン橋落ちた
 エリザベス女王が亡くなられた。英国では、エリザベス女王の誕生時点で既に女王崩御を報せる暗号文「ロンドン橋落ちた」が決められていたという。以来、英国では国葬の準備が内々で進められていたのだそうである。

 いよいよ、その国葬の日となった。私は葬儀の様子をテレビ中継で見ることにした。普段なら、オリンピックの開閉会式での入場行進などは見る気が起こらない、全く関心が湧かないのである。盛大ではあるが、各国の選手の動きがばらばらで見ている者を感動させるものがない。行進を見ていても心を動かされるような場面がないからである。

 しかし葬儀の行列なら少しは様子が違うかもしれない。葬儀では整然とした行進が前提となるから何かしら見る者の心に響くものがあるだろう。粛々とした行進なら見る価値があると思ったのである。

 葬儀の日までの間、テレビでは50年前の戴冠式当時からの様々な映像が紹介されていた。当然のことながらモノクロフィルムで保存されていた古い記録なので画質がよくない。それを繰り返し見せられている内に、私は現在の映像技術を駆使すればもっと素晴らしい画像表現ができる筈だと思うようになった。新しい国葬の様子はどのように放映されるのだろうと少し期待していたのである。

▼葬列を見る
 葬儀の当日、テレビをつけるとウェストミンスター寺院に向かう葬列の行進が既に始まっていた。最初の内はぼんやりと眺めているだけだったが、次第に熱心に見るようになった。美しい映像とバックに流れる荘重な音楽とがあいまって期待通りの雰囲気になってきたようだ。

 特に、142人の英国の海軍兵士たちが女王の棺を乗せた砲車の前後を守るようにして白い綱で引きながら行進する様子が素晴らしかった。軍楽隊により演奏される葬送行進曲に合わせて葬列がゆっくりと進んでいく様子に思わず見入ってしまった。


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 長時間の放映なので長い行列の様々な部分が順番に画面に現れる。私はもう少し長く砲車を引く海軍兵士の一団を見ていたかったのだが、仕方なく再び海軍兵士の場面に変わるのを待つしかなかった。

 ゆっくりと進む葬列の歩調に合わせて静かに打ち鳴らされる打楽器の音が心地よく聴こえてくる。気が付くとそれが本当の足音だと錯覚してしまいそうになる。

 再び海軍兵士の画面になった。よく観察してみると兵士たち全員の左右の足の運びが完全に一致していて、砲車を運ぶ集団が一つの塊となって動いているように見える。兵士たちが右足を前に出すと重心はほんの少し左足に移るから集団は(前から見て)右側に振れて見える。左足を前に出すと今度は左側に振れて見える。こうして集団は左右に小さく揺れながら脈動するように進んでいく。この動きが、演奏されている行進曲のテンポと完全にマッチしている。これが長く続くと心の奥底に響いてきて何か不思議な気分になってしまうのであった。

 その集団の後には、軍服姿のチャールズ新国王、アン王女、ウィリアム皇太子が続いている。軍服を着用したアン王女の姿は実に気品がある。皇室の関係者が公の場では軍服を着用するのは知ってはいたが、女性も軍服を持っているとは意外であった。

 後で知ったことだが、アン王女が葬列に参加するのはエリザベス女王陛(*1)の希望で生前から決めていたことなのだそうである。珍しい場面を見ることができた。
【注】(*1)女王の対外的な呼称は「Her Majesty the Queen(女王陛下)」から「Her Majesty Queen Elizabeth(エリザベス女王陛)」に変わっている。
 大きな相違は「The」の部分にある。称号の「The」はあくまでも「現在の称号保持者」を示す。そのためこれがない場合は「元称号保持者、もしくは称号保持者の元配偶者」ということになる。
▼見るより行進する方が楽しい
 私がこのように行進曲が好きになってしまった原因は、多分中学生時代の経験から発するのではないかと思う。

 昔、渋谷区の中学校の生徒だった頃、渋谷区内の中学校同士の体育祭があった。私は最初の入場行進をするグループの一員になっていたので、あらかじめ行進の仕方を何度も何度も練習させられていた。その練習のおかげで当日は素晴らしい行進ができたのである。

 このとき私は、観客として見る側ではなく行進する側にいた方がはるかに楽しいことを知ってしまった。行進では、最初の一歩から全員の足並みが揃っている必要がある。更に歩調のサイクルが合ってくると参加している全員がそれを体感できるようになる。これが何とも言えないくらい楽しく、そして気持ちが良いのである。競技場の風景はもはや思い出せないでいるが、このときの爽快感だけは今でも忘れることがない。

▼見事な行進
 英国の海軍兵士たちも、そういう気持ちを感じながら行進していたのではないかと思う。私は、彼らの立場が羨ましくてならない。もし許されるものなら、私も彼らと一緒に行進したくなる程であった。兵士たちは全員背の高さが揃っていて無駄な動きは一切ない。常に前方に視線を向け、粛々と役目を果たしている。その美しさにただ感嘆するばかりであった。

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 横一列が6〜10人で構成されていて、行進の途中では狭いゲイトなどを通り抜けることもあった。通過する際には身体を互いに密着させて隊列を少し細くし全体では何事もなかったかのように通り抜けていく。実に良く訓練されていて見ていても心地よい。日々、厳しい訓練を続けてきた成果であろう。その努力の結果が今こそ見事に花開いている。

 兵士たちの日々の準備や訓練は50年以上前から進められていたのだと思う。その間には、練習のみで本番の日を迎えることのないままお役御免となった兵士たちも多かったことであろう。運よく葬列のメンバーに選ばれた兵士たちは自らの幸運をかみしめているのではないだろうか。その名誉は、子々孫々まで語り継がれるに違いない。

▼葬送行進曲
 後日 私はこの原稿を書きながら、葬列の行進の間にずっとバックで流れていた葬送行進曲が一体何種類あったのか知りたくなった。そこで何か情報が得られないかとウェッブ上を捜してみたのである。そのときびっくりするような記事を見付けてしまった。

 同じテンポで、同じリズムの曲を繰り返し聞いていると、人は心理的に影響を受けるということが書かれていた。段々と不思議な気持ちになっていくことがあるというのである。音楽の専門家が言っているのだから信じてもよいと思う( 参照 )。

 私の行進曲好きは、ずっと昔の思い出が切っ掛けになったと思っていたが、もともと葬送曲というのは“同じテンポで、同じリズムの曲”であるから長時間連続して聞いていれば心理的に何らかの影響を受けるのは当然のことだったかもしれない。

 どうやら私の考えは勘違いだったようだが、コロナ禍以後学んだ知識によれば、コロナウイルスが長年体内に潜んでいて、何らかの刺激があると眠りから覚めるように活動を再開し副反応を引き起こすというではないか。私は帯状疱疹ワクチン、肺炎球菌ワクチン、そして新型コロナワクチンで繰り返し経験している。それと同じように、葬送曲という刺激があると大脳に記憶されていた昔の記憶の一つが突然目を覚まして蘇ってきたとしても何ら不思議はないと思うのだが、どうであろうか。

▼日本の国葬は?
 予定した原稿が書けず執筆が遅れている内に、日本の元首相のごり押し国葬が行われてしまった。ここで一言触れておくことにしよう。

 岸田首相が「国葬儀を行う」と宣言したとき“ぎ”は“儀”であることが分かったが、私は国葬の方がふさわしいのではないかと内心思ったものだ。しかし実際に国葬が終わってしまった今では、国葬(国葬ごっこ)と呼んだ方ががふさわしかったと思うようになった。

 岸田首相は事後の検証を行うと言っているが、いくら“丁寧な説明”を強調しても国民の納得が得られるとは思えない。この間に自民党は自己の資金を一切使わずに、全額税金で国葬を済ませることに成功したのだから大成功と考えていることであろう。