素歩人徒然 クローン牛 多様性はなぜ重要か
素歩人徒然
(22)

クローン牛


── 多様性はなぜ重要か

 クローン羊に続いてクローンの牛が誕生したというニュースが新聞紙上を賑わせている。これは体細胞クローンの技術を使って全く同じ遺伝子を持つ牛を人工的(?)に作り出すものである。
 体細胞クローンというのは受精卵クローンとは異なり、たとえば成長した牛の耳や卵管・胎児などから取り出した細胞の核を、別の牛の核を取り除いた卵に移植する技術のことである。最近では卵管・胎児ばかりでなく牛乳からも可能になってきたという。この技術により、たとえば優秀な牛ばかりを大量に生み育てることが可能となる。

 こういった技術は、一度成功するとあっという間に普通の技術となり実用化されてしまう。したがって動物実験の段階なら問題は少ないが、必ずその技術を人間に応用しようとする輩が出てくるから倫理的な面での議論が必要となる。

 しかしここではそういう難しい議論はさておいて、一般的な動物に適用した場合の問題にしぼって考えてみることにしよう。たとえば、しもふりのうまい肉が取れる牛がいたとする。この牛のコピーを大量に生産できれば消費者は喜んでそれを買うに違いない。そうなると生産者側は競って消費者の求めるものをできるだけ安くかつ大量に供給しようとする。その結果、その遺伝子をもつ牛だけが大量に飼育され、その他の牛は省みられなくなってしまう。肉はそれほどうまくないが、別の利点があるかもしれないのに。そして、そういった状態が長く続いていくと、何時の間にかその他の牛は駆逐されてしまうことになる。

 こういった状態のところに、何かある悪い病気がはやってたまたまその飼育されていた牛が被害を受けたとしよう。そうすると最悪の場合、その種が全滅してしまうことだってありうる。その病気に強い遺伝子を持った牛なら立派に生き残れたものを。
 余りにも単一性(均一性)を追求していくと、必ずそういう痛い目に合うようになっているのである。世の中の仕組みというものは大抵はそんな具合になっている。こういう際には、均一性よりも多様性の方が逆に重要になってくるのである。

 こういった考え方は、コンピュータの場合にも当てはまるのではないだろうか。最近のコンピュータは、いわゆるコンピュータウィルスの攻撃に対して極端に弱くなってきている。

 メインフレームの時代には、コンピュータシステムがウィルスにやられるなどということは考えられなかった。その理由の第一は、コンピュータというものがある一定水準以上のインテリジェンス(あえて倫理観とは言わない)を持った人たちの占有物だったからであろう。もちろん彼らだってコンピュータに対してある種のいたずらをしたことはあろう(私にも覚えがある)。しかしそれは単に技術的な興味から発するものであったはずだ。コンピュータあるいはその利用者に対して、最初から悪意を持って接するなどということは決してなかったと信じたい。

 もっとも、メインフレームがコンピュータウィルスに汚染されなかった最大の理由は、ハードウェアを構成するCPUの種類が多種多様だったからでもある。コンピュータウィルスは普通特定のマシンコードで記述されているので、結果として機種を選ぶことになる。それが、メインフレームコンピュータにとっては防護壁となっていたのである。

 しかしダウンサイジングとオープン化の時代を経て、コンピュータは一般大衆のものとなった。そして、もはやインテリジェンスもモラルも、更には倫理感覚のかけらも持ちあわせていない一部の不心得な人たちによってウィルスが生み出され、やがて野に放たれたのである。

 それでも初期の頃はまだよかった。ウィルスに感染するマシンと感染しないマシンとがあったからである。一般にワークステーションの環境ではCPUが多様であったためそれほど急激にウィルスが蔓延するようなことはなかった。ところがパソコンの時代となるともういけない。機種が均一なのでたちまちにして伝染し蔓延するようになってしまった。今思い返してみると、パソコンの初期の時代にはOSの種類に違いがあったりして簡単には感染しなかったものだ。我々の使うマシンには日本語機能という特殊な障壁があったから、外国製マシンから直接感染するということも少なかった。

 ところが最近は、パソコンの世界はウインテル(注1)に制覇されハードウェアもソフトウェアも均一化されてしまった結果、感染力の強いウィルスを作るのは極めて容易になった。汚染されたフロッピーを読んだだけでたちまち感染してしまう(経口感染)。利用者が使うアプリケーションソフトの種類さえも画一化されてきて、マイクロソフト社のワープロソフトや表計算ソフトしか事実上存在しないような極端に均一化された世界になってしまった。その結果、そのアプリケーション用のデータファイルが汚染されていると、その文書を開いただけでもう発病してしまうようになった(空気感染)。我々は過保護な環境に慣らされてきた結果、極めつけの虚弱体質になってしまったといえるであろう。

【注1】Wintel:最近はこの言葉もはやらなくなってきたそうである。

 マイクロソフト社のビル・ゲイツ会長は、自社製品の出荷形態にからんで「これは利用者が求めているのだ」とか「利用者の利便を考えてのことだ」と主張しているけれど、果たしてその言葉通りに受け取ってよいのだろうか。売れるもの至上主義、つまり利用者が求めているからと言ってそれだけを作りそれ以外のものは一切駆逐してしまうという経営態度でよいのだろうか。
 我々の周辺は今、ウインテル一辺倒の均一製品で埋め尽くされようとしている。これでは今後の技術進歩というものがなくなってしまうのではないか。もっともっと多様性のある製品群にしていかなければいけないと思う。NCもよし、UNIXもLinuxもよし。何もJava一辺倒である必要はない。Perlだって素晴らしい言語ではないか(どさくさに紛れて言うのだが)。

 オブジェクト指向プログラミングでは多様性が重要視されているのは周知のとおりである。プログラムもプログラム言語も、多様性を求められている。どんなものでも均一だと性能はよくなるかもしれないが、脆弱でもろいものになりやすい。一方、多様だと性能は多少落ちるが強固でロバスト性に優れたものができると言われている。

 Javaの仕様に関して、マイクロソフト社とサンマイクロシステムズ社は互いに主導権争いをしている。マイクロソフト社のようにウインテルという単一環境だけを意識して仕様決めしていけば、Javaもそれなりに使いやすい高性能のものになるであろう。一方、サンマイクロシステムズ社の主張するマルチプラットフォームという多様化された環境を前提とする限り、Javaの前には機能的にも性能的にも難しい壁がいくつも立ちはだかっていることであろう。

 クローン牛のニュースを聞きながら私はこう考えた。自分はクローン技術はもちろんのことJavaの技術にも(残念ながら)詳しくはないが、直感的にいって多様性を重視していった方が、結局はプログラム互換性の観点からも一般的な技術進歩という側面からも、将来望ましい方向に行きつくのではないだろうかと。■