素歩人徒然 額縁 商品に仕立て上げる難しさ
素歩人徒然
(25)

額縁


── 商品に仕立て上げる難しさ

 久しぶりに上野の森へ行って美術館で絵画を鑑賞してきた。
 数年前、病のため急逝された東芝同期入社のO君の奥様から、絵画展の入場券を頂いたのである。O君の没後、O夫人は趣味の絵画に熱心に取り組まれ苦しい時期を克服してこられたのであろう。その成果が絵画展入選という形で実を結んだのではないかと推測する(初入選は彼の生前の頃からとか)。私はO夫人とは直接お話したことはないが、年に一度の年賀状交換では何時もはがきに美しい絵が描かれていたのを思い出す。

 私も絵を描くのは好きな方なので、早速会社が休みの土曜日に上野の都美術館へ行ってみた。前日までの暖かい春の日がうそのように小雨の降る寒い日であった。時間も早かったせいか館内には人影もまばらで、一人で鑑賞するには絶好の時間帯である。会場に入ってみると、想像していた以上に会場が広く作品数も多いようである。このまま順に見ていったのでは、おそらくO夫人の作品を見つけ出すのは極めて困難な作業となろう。絵を鑑賞するどころか、制作者の名前だけを見てまわることにもなりかねない。

 そこで私はいったん入口に戻り、O夫人の作品が飾られている部屋番号を確かめることにした。するとO夫人の作品は「佳作賞」という賞を受けておられることが分かった。作品の展示場所を捜し当てると、あったあった、それは壁に立ち向かう裸身の男女二人を描いた力強い見事な作品であった。なるほど‥‥、これはたいしたものだ。ここに描かれている何ものかに立ち向かおうとしている姿勢は、もしかすると現在のO夫人の境遇とか気持とかをそのまま表現したものなのかもしれない、などと私は勝手に推測しつつしばしその絵に見入っていたのである。

 その後で、私は会場内をゆっくりと歩きながらその他の作品を鑑賞してまわった。この絵画展は写実的な絵が中心で、昔ながらのオーソドックスな作品が多い。どうやら私の感性には合っているようである。カラー写真を見るような実に写実的な作品が結構多く展示されている。

 余談になるが、私の親戚には絵画に関係の深い人が多い。伯父もいとこも共に画家である。別のいとこのY氏は、某大新聞社の学芸部記者を経てN画廊で長年絵画の批評を業としてきた。最近知り合ったある画家と話をしていて、偶然このY氏の名が出て私は初めて知ったのだが、Y氏は日本の最も著名な批評家三人の内の一人なのだそうである。彼が、個展を見に来てくれたというだけで関係者は大感激する程の重鎮なのだという。Y氏とは年に1〜2度会ってはバカ話をして過ごすことが多いが、彼がそんな重要人物であるとは私はつゆ知らなかった。そういう環境にいるので私は絵画の最近の傾向とか新しい表現方法などにはかなり詳しくなっているつもりなのだ。もはや昔ながらの写実的な絵の時代ではなくなっていることを私はよくよく承知していた。そして今の絵画は、私の古くさい感性では到底理解できない程遠く離れた存在となってしまっていたのである。

 ところがこの極めて写実的な美術展の作品を見ているうちに私は再び昔慣れ親しんだ絵のことを思い出し、しだいに絵画が身近なものに感じられるようになってきた。そして(いささか不遜なもの言いにはなるが)この程度なら自分でも描けるのではないか‥‥などとふと思ったりした。しかし、どの作品も途方もなくサイズが大きい。O夫人の絵もそうだが、私は今までこれほど大きな絵を描いたことがない。これほどの作品になると仕上げるのにずいぶんとエネルギーがいることであろう。それに額縁の方も立派である。額縁の値段など私には皆目見当がつかないが、多分かなりの高“額”なものなのであろう。私は絵のスケールと額縁の立派さに終始圧倒されてしまったのである。

 絵というのは、ただキャンバス上に絵の具を塗りたくっただけのものではなかろう。その絵の画題やスケールにふさわしい額縁に納まって初めて釣り合いの取れた一つの作品となるのではなかろうか。やはり見栄えのする立派な作品にはそれなりの大きさがありそれに相応しい額縁があって、それらが一体となって初めて鑑賞されるに相応しい作品となるのであろう。それは多分、額縁により絵は内と外とに分割されるが、内なる絵の部分は額縁の存在によって初めて枠を越えた無限の広がりを持つものとして見る者に錯覚されるからであろう。そんなことを考えながらの久しぶりの美術鑑賞であった。

 私も今年で定年となる。プログラム作りという仕事からはとっくに足を洗っているが、時間が許せばプログラム作りに再び取り組みたいという熱意だけはまだまだ残っている。日曜画家とか日曜大工ならぬ“日曜プログラマ”なら今までもずっと続けてきた。しかし(しばらくは会社に残るが)定年後のたっぷりとある時間を本格的なソフトウェア作りに当てることが実際に可能になってみると、もはやスケールの大きなソフトウェアを作るエネルギーが自分には残されていないように思うのである。

 一昔前のソフトウェアと違って、最近のソフトウェアは何でもスケールが大きい。中には途方もなく大きなサイズのものすら存在する。これは、求められる機能が多種多様になってきたこともあるが、取扱説明書としてのマニュアル類がヘルプ機能としてシステム内に取り込まれているからでもあろう(それらがソフトウェアの大きさに大きな影響を及ぼしているのも確かであろう)。それに何よりも、競争力のある商品として仕立て上げるには、全体の見てくれをよくするための装飾を施すことが不可欠となってきている。特にウィンドウズ環境でのプログラム作りでは、ウィンドウズ独特のマンマシン・インタフェースの採用(注)が求められる。ウィンドウズ環境という高価な“額縁”の中に納めない限り到底売れる商品とはなりえない時代なのである。
【注】採用することそれ自体は簡単であるが、その結果プログラムのサイズが極端に大きくなってしまう。

 どうやら私めのような老兵は、趣味の日曜プログラマ(あるいは日曜画家)のままでいた方が無難のようである。■