素歩人徒然 花 生存の危機 賀川豊彦
素歩人徒然
(27)



── 生存の危機

 私の家の居間には一枚の色紙が飾ってあって、そこには達筆な字で次のように書かれている。

 『野の百合を見よ ソロモンの栄華の極だに
  その装 この花の一つに及ざりき
   一九五四・十二・二十八
               賀川 豊彦
 』

 これは賀川豊彦先生(*1)の直弟子であった私の父が、昔先生に書いていただいたものである。私にとっては父の形見の品のように思える代物なのである。
【注】(*1)キリスト教伝道者(1888-1960)。神戸のスラムに入り伝道と住民の救済を行った。宗教的信念から労働運動にも加わり指導的役割を果す。ノーベル平和賞候補と言われた時期もあった。私にとっては“先生”と尊称を付けて呼ばねばならぬ程の存在なのである。

 私は長い間この言葉の意味を「自然の花の美しさ」を謳ったものと単純に理解していた。しかし聞くところによるとどうやらこれは聖書からの引用であるらしい。そうだとすれば、神の教えとしてのもっと別の深い意味があるのかもしれない。私は何となく心にひっかかるものをずっと抱えていたのである。

 最近インターネット上の検索エンジンを使えば、ちょっとした疑問なら簡単に関係する文献を見つけて、居ながらにして答を得ることができることをおぼえた。そこで私は早速にこの疑問を解消してみようと試みたのである。

 まず“聖書”,“ソロモン”,“百合”という三つのキーワードで検索してみた。すると、この言葉はマタイによる福音書(*2)の記述がもとになっているらしいことが分かった。そしてその言わんとするところは「栄華を極めたときのソロモンでさえ、野の花の一つほどにも着飾ってはいなかった。人は日々何を着ようかと思いわずらってはならない」という意味だったのである。つまり何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかといった物欲をいましめ、人々に神を信ずることを求めた言葉だったのである。その他いろいろなことが、あっという間に分かってしまった(*3)
【注】(*2)新約聖書のマタイによる福音書 6章25節〜34節参照。また、ルカによる福音書12章22節〜34節にも同様の記述があることを知人から教えられた。
【注】(*3)さらに、この言葉は16〜17世紀のヨーロッパ中の植物学者を悩ませた言葉なのだそうである。「野の百合」とは実際に何を指すのか学者の間で大変な論争となり、最終的にヨーロッパに紹介されたユリ科の花として野生種の「チューリップ」であると判明したとある(単なる引用だから真偽のほどは保証しない)。

 なるほどそうだったのか。私は長年抱えていた疑問が解決してすっきりとした気持ちにはなった。しかし、いや待てよ‥‥もともとの意味はそうだったのかもしれないが、この言葉単独でそういう意味を伝えるのにはやはり無理があろう。現在のような物の豊かな時代に即して考えれば、私の最初の素朴な解釈の方がぴったりしているのではなかろうか。つまり自然の花の美しさから虚栄を戒めた言葉と取るのが自然であろう。キリスト者ではない私には、どうもそのように思えてくるのだった。

 「自然の花は美しい」というのは誰でも知っている。しかしそれは言葉の上で知っているだけで本当にそれを実感したことがあるかどうかは分からない。人それぞれであろう。
 特に百合の花(チューリップであってもよいが)のあでやかさは芸術作品を見ているような気がするものである。しかし私はそんな派手な花よりも我が家の庭に咲いている素朴な花々の方に魅力を感ずる。中でもハイビスカスの花(これは野の花とは言えないが)を見る度にその美しさに驚嘆するのである。自分のホームページに載せるために庭に咲いている花の写真を撮ろうとする。しかしその自然のままの姿を画像で再現できなくて私は何時ももどかしさを感じてしまう。これは撮影技術の問題ではなく(少なくとも本人はそう信じて疑わない)撮影のためのツールつまりカメラの性能の問題なのである。しかしどんなに高性能のカメラを使ったところで、自然の花のあの美しさを完全に再現することはできないであろう。

 ハイビスカスの花に顔を近づけて中を覗きこんでみるがよい(写真参照。クリックで拡大可)。どうしてこんなにも美しいデザインがありうるのかと思わずため息がもれるほどである。これが、進化の過程で偶然にできてしまったとは私には到底思えないのである。何者かの意思がはたらいてこのような精緻なデザインがなされたとしか思えない。キリスト者なら、これは神がお創りになったものであると簡単に片付けてしまうであろう。しかしキリスト者でない私(分かったって!)には、そう簡単に納得できる結論ではない(しかしこの問題にこれ以上深入りするのはやめておこう)。

 我が家の庭のハイビスカスの花は去年は六月から十月頃まで盛大に咲いていた。あんなに盛大に咲いたのは異常気象のためかと思っていたが、今年も同じように咲いている。このハイビスカスが植えられている鉢は実に小さなもので、いずれ大きな鉢に植え替えてやらねばと思いながら毎年そのままでうち過ぎてきてしまった。小さな鉢なので風が吹くと直ぐ倒れてしまうほど不安定になってきている。土の量も極めて少なく保水状態も良好とはいえない。それなのにこのように盛大に咲く理由は、どうやらハイビスカスが生存の危機を感じて子孫を残そうと最後の力を振り絞っているためではなかろうか。

 鉢植えの花を咲かせるには(種類にもよるが)あまり十分に肥料や水をやらないことであると言われている。渇々の状態にして生存の危機を感じさせる程度にしておくと子孫を残そうと必死で花を咲かせ、種を残そうとするのである。実に健気というか自然の生命力とは素晴らしいものだと思う。そういう力を引き出すように育てるのがコツなのであろう。

 これは人間の場合にも当てはまる話である。西欧の歴史の中でユダヤ系の虐げられてきた国の人々からノーベル賞級の優れた学者が多数輩出している理由は、彼らが長年“生存の危機”を感じながら生きてきたからであろうと思う。彼らは学問的な業績を上げることによって世に認められ、欧米の自由世界で安全を約束された自由な研究環境や地位を獲得しない限り自ら生き延びることができないという危機的状況の中におかれていた。そこで生き延びるために彼らに求められたのは、決して「ハングリー精神」などという程度の生易しいものではなかったはずだ。生命の危機を感じながら何ものかに取り組んでいれば(我々の環境では、そういうことは滅多にないが)必ずや今までとは違った成果が生み出されてくるに違いない。私は盛大に咲いているハイビスカスの花を眺めながらそんなことを考えていた。

 話は変わって、当社では若い技術者に対して情報処理技術者試験などの各種の資格を取得するよう奨めている。しかし取得率は必ずしも満足すべきものではない。毎年の合格率は世の中の平均値と五十歩百歩の状態が続いている。資格獲得を推進するために、スタッフ部門では模擬試験を実施したりと色々と知恵をしぼって様々な努力を重ねている。しかしどんなに周りがお膳立てをしてやっても本人がその気にならない限り到底合格はおぼつかない。

 「資格などなくても仕事はできる」とよく言われる。その通りであろう。私もこういった制度はあまり好きにはなれない。日本や中国では昔から官の定めた資格を取得しない限り何事も開けてこないという試験制度が存在してきた。アメリカでは決して存在し得ない制度であろう。学歴や肩書きなどによらない実力一本の世界の方がよいと思う。しかし日本にいる以上は、我々はこういった関門をクリヤーしなければならない。資格を持たない人でも「仕事ができる」のは確かなことであるが、同時に彼(女)は人生で出くわす様々な関門の一つをクリヤーできなかった人であるということも同じくらい確かなことであろう。

 資格取得のための各種対策の中で最後に登場する議論が“報奨金”の問題である。合格者には高い報奨金を出すべしという主張が必ず出てくる。しかし報奨制度を厚くすれば合格率が高くなるかというと、そんな証拠はどこにもない。私も以前は報奨金を出せば合格率が高くなるのではないかと思った時期があった。しかし褒賞の有無だけで合格/不合格が決まるなら話は簡単である。それなら何で最初から頑張ろうとしないのかと逆に問いたくなる。報奨金があってもなくても本来合格すべき人は合格する。今やこういったハングリー精神に訴えるような方法が通用する時代ではなくなってきているのである。

 私はこう思う。報奨金などで各人のハングリー精神に訴えるよりも「生存の危機」という意識の方に賭けるべきではないか。つまり「資格を取得しない限りリストラされるかもしれない」と考えて自分を追い込むことの方がより効果があると思うのである。生命の危機とまでは言わないが、各人が会社内で自分の存在に対して危機感を持つような状態に自らを追い込んでいかない限り、取得率の大幅な向上はあり得ないであろう。ハイビスカスの花のひそみに習い、自らの存在意義をかけて次の資格試験に臨んでほしいものである。■