素歩人徒然 本 文書を残す方法
素歩人徒然
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── 文書を残す方法

 人の本棚を見るのは楽しい。どんな本が並んでいるかでその本棚の持ち主の趣味とか興味の対象がどこにあるか、あるいはその人の教養の程度をある程度知ることができるからである。

 学生の採用活動で大学訪問をしていた頃のこと、就職担当の先生に対して一通りの会社説明が終ると後は雑談となる。そういうとき私は事前に先生の本棚に並んでいる本を見ておいて、共通の話題にできそうなものはないかと捜すことにしていた。大学教授の本棚だから並んでいるのは大抵は専門書や技術書ばかりであるが、その中から先生の専門分野が何であるか読み取ってそこに話題を持っていくのである。どんなに気難しい先生でも自分の専門分野の話になると嬉々として話に乗ってきてくれたものだ。コンピュータ関係の本が並んでいたりすれば、もうしめたものであった。

 妻の実家にある義父の本棚を見るのもまた殊のほか楽しい。沢山の本が積み上げられていて、ほこりまみれになることさえいとわなければ時間を過ごすには絶好の興味の尽きない場所である。昔はちゃんと整理されていたのだろうが、読書好きの義父が読んださきから手当たり次第に詰め込んでいくせいか、もはや“積み上げられた”と表現するのが相応しいような状態になってしまっている。そういった中から適当に本を取り出して何気なくぱらぱらと頁をめくっていると、突然まとまったお金(紙幣)が出てきたりするのであった。それも、板垣退助の肖像が印刷されているあの古い時代の100円札だったりする。昔、義父がへそくっていてそのまま忘れ去られてしまったものであろう。断っておくが、私はそれを捜すのが目的で本棚を覗き込んでいる訳ではない。いや、‥‥正直に言えばそれもまた楽しみの一つではあったが。

 そんな本の中に邪馬台国関係の本が散見され、数えてみるとかなりの冊数になることが分かった。何かの折に、もしよかったら邪馬台国関係の本だけでも将来私に(形見分けとして)譲ってほしいと義父に頼んだことがあった。私は別に邪馬台国の歴史にそれほど強い関心があった訳ではない。しかしこれだけまとまっている本が散逸してしまうのは、何としても惜しいと思ったからである。

 義父はそれを憶えていてくれて、90歳になった頃まとめて私に譲ってくれたのである。実に30冊にも及ぶ分量であった。1960年代に書かれたものもある。その譲ってもらった本の一覧表を作りながら私は考えた。色々な人が色々な説をとなえている(ほとんど私の知らない著者名ばかりだ)。昔から邪馬台国に関しては学者や素人学者が研究をかさねて色々な説を提起してきた。それらの説は時間とともに、あるいは時代とともに(人も説も)忘れ去られてしまうことであろう。しかしこうして本になっていると何とかその痕跡だけでも後世に残すことができるものなのだと。

 私も、これまで自分の書いたものをできるだけ本にして残すことに拘ってきた。それは企業内での技術者教育に携わったきた経験にもとずくものである。
 教育の場で利用する資料をいくら苦心して作っても、受講者は教育が終るとほとんどその資料を捨ててしまう。手元に残しておいてこれからの技術者としての長い会社生活の中で何かのときには活用してほしいと思って作ったものなのであるが。
 そういった資料がくずかごに放り込まれているのを見るのは、作成者としては大変つらいものである。少しは立派な資料にして、捨てるのに抵抗を感ずるようにしてはどうか。そう考えた私は、できるだけきれいに印刷して製本されたものを配布するようにしてきたが、それでも結局は捨てられてしまうのだった。表紙にOHPシートをかぶせて立派に見せる工夫もしてみたが、やはり結果は同じであった。これはもう市販の本にしてしまう以外に方法はなさそうである。

 以来私は、残したいものは何でも市販の本にしてしまうことにした。技術書だから高々数千部しか印刷されないので印税で儲かる訳ではない。それでも、こうしておけば何年間かは、あるいは十数年は(ちょっと欲張りかな?)自分の痕跡が残せるだろうという自己満足のためである(出版社の方はいい迷惑であったろう)。それに何よりも、出版すれば必ず少なくとも1冊は国会図書館に永久(?)保存される訳だから。

 どんなものであれ、文書を後世に残すというのは難しいことである。後世というと少し大げさになるが、まあ数十年という単位でもよい。インターネットが普及した今日では、あふれるような情報の洪水の中から自分が必要とする情報を捜し出すことの方が難しくなってきている。したがってどんな文書も、ただ貯蔵されているだけで利用されないということが実際に起こり得る。利用されなければそれは死物にすぎない。蓄積された情報は検索され、人に読まれてはじめて意味のある文書となる。あまりに多量の情報が存在すると、その大半は読まれる機会を失ってしまい存在しないのと同じことになってしまう。日々大量生産される膨大な情報にまぎれて事実上無視されてしまうことになるのだ。これを新種の“焚書”と呼んでいる学者もいるくらいである。

 ところで、現在の文書の大半はワープロを使って電子的に処理されて作られている。こういったデジタル情報は複製しても劣化しないことから、そのコピーを何らかの記憶媒体上にデジタル情報として保存しておけば(その媒体が壊れない限り)情報自体は決して失われることがない。つまりデジタルの時代には、情報はいくらでも蓄積できしかも半永久的に保存され続けると言われてきた。

 しかし大型機全盛の時代に使われていたあの磁気テープを思い出してほしい。大型のリールに12.7mm幅のテープが巻かれている磁気テープは、今や滅多に見られない存在となってしまった。先日、私が教えている大学の授業で、大容量補助記憶装置の例として磁気テープを学生に見せようと思い大学の計算機センタから借り出そうとしたのである。しかしその大学ではもはや磁気テープは使っていないと言われてしまった(テープリールを1巻だけでも保存しておけばよかった。あぁ)。「半永久的に保存される」などという言葉を信じてはならないのである。

 私は日本で最初の日本語ワードプロセッサ(TOSWORD JW-10)を使ったときのことをときどき思い出す。それまで手書きで作っていた仕様書を、周囲の人に先駆けて、私は初めて日本語ワープロで作成してみたのである。こうしておけば何度手直しが必要になっても少しも困らない。私は出来上がった文書をフロッピーディスク(8インチ)上に保存して至極満足したのを今でもまざまざと思い出すことができる。しかしあの文書は一体どこへ行ってしまったのだろう。今や8インチのフロッピーディスクなぞ博物館へ行かねば見られない存在になってしまった。フロッピーディスクはその後5.25インチ(約13cm:これは大切に保存してある!)が主流となり、次いで3.5インチ(約9cm)の時代へと変わってきた。もはや5.25インチが読めるマシンは私の周辺では見当たらないようである。

 3.5インチの媒体なら安心かというと、さにあらず。3.5インチのフロッピーディスクは当初は片面記憶だったが、両面記憶となり更に両面倍密度の記憶方式になった。この両面倍密(2DD)も2HDへ、更には1.2M、1.44M、2.88Mと様々な形式が出現してきて、今や2DD形式では読めなくなってきているのが現状である。こういった媒体に保存されていた文書情報は、技術の進歩にともなって次第に読むことができなくなっていくであろう。つまり時の経過とともに事実上存在しないのと同じことになってしまうのである。記憶媒体としてのCDもDVDも、どんな種類のメモリカードも、あてにはならぬと知るべきであろう。

 一方、デジタル文書の情報自体にも問題がある。ワープロを使う限り文字情報は単なるテキスト情報にとどまらず、何らかの編集情報が付加されているのが普通である。最近のワープロの機能向上にともない、その付加情報も膨大になってきて今やリッチテキストなどと呼ばれる得体の知れない代物になってしまった。自分が使っていたワープロが世の中の主流ではなくなり、不幸にして消滅する運命になったとしたら、それで作った文書も読めなくなり同時に消滅する運命となってしまうのである。この場合、そういうワープロを選んでしまった自分の不明を恥じ、責任の一端は自分にもあると考えて諦める手もあろう。しかしそのワープロ自体は消滅していないのに、バージョンアップという流れに身を任せていたがために、気が付いたときには過去に作った大切な文書が読めなくなっていることに気が付くということもある。これこそ、どこぞのソフトウェア会社が主導する“焚書”そのものではないかと私は思うのである。

 このような状況から考えると、我々は貴重な文書をたとえデジタル化しても安全に後世へ残すことはできないのではないかと危惧するのである。どんなものでも、物理的な印刷物として保存すること以上に安全な保存法はない。最近、電子本とかいうものが騒がれているが、あんなものは決して文書として後世に残りはしない。やはり残すなら本に勝るものはないのではないか(もっとも、最近の書物の用紙は酸性化してしまうので数百年はもたないという説もあるけれど‥‥)。

 しかしそうは言っても、誰でもが気軽に本を発行できる訳ではない。したがって我々は、保存したい文書はできるだけプリントアウトして印刷物として残すのが一番確実な方法であろうと思う。デジタル情報の形で保存するとしても、特定のワープロの機能には依存しない形で、つまり純粋なテキスト情報だけの形にして保存するのがよいであろう。それを記憶媒体上ではなくウェッブ上に保存するのである。ウェッブ上には無料でホームページを作れる場所がいくらでもある。そこをデータ置き場(倉庫)として用いるのである。

 ウェッブ上に保存するというと、何か世界中に張り巡らされたネットワーク上にぶらさがって保存されるようで心もとなく感ずるかもしれないが、実際は特定のサーバーマシンの管理下にある大容量記憶装置(ハードディスク等)に置かれているに過ぎない。したがって、物理的には自分のマシンのハードディスク上に置かれているのと何ら変わるところはない。しかしウェッブ上にあるということは、何時でも、何処からでも、特別な形式によらずにアクセスできることを意味している。そして、そのサーバーマシンがたとえクラッシュして破壊されたとしても、システムがリプレースされたとしても、あるいはその管理会社が倒産したとしても、それらのファイルは確実に復旧され引き継がれていくものと(少なくとも現在の)社会通念では信じられている点が重要なところである。

 もっともこの「社会通念」とやらが何時まで通用するかは分からない。それが心配な人は、やはり何でもせっせとプリントアウトして保存することであろう。■