素歩人徒然 万年筆 書くための道具
素歩人徒然
(29)

万年筆


── 書くための道具

 最近、万年筆をよく使うようになった。
 私が定年で役職を離れることになったとき、職場の仲間達が私のために送別会を開いてくれて、その際に記念品として外国製の万年筆を贈ってくれたのである。花束などをいただくよりも記念の品として後に残るものの方がよいから、私にとってはとりわけうれしい贈り物だった。

 その万年筆を使ってみると、これが思いのほか書きやすいのである。考えてみると私は万年筆などというものをここ数十年来使ったことがないような気がする。正確な記憶はないがよく使ったのは中学生の頃までであったろうか。高校生以降の学生時代には、専ら鉛筆を使っていたように思う。教師のしゃべる言葉をノートに速記するには、鉛筆やシャープペンシルの方がはるかに便利で使いやすかったからである。

 社会人になってからはボールペンや油性/水溶性のペン(いわゆるマジックペン)という便利な筆記用具が登場したこともあり、書くための道具は専らボールペンやマジックペンあるいは鉛筆(シャープペンシルを含む)になってしまった。そしてパソコンやワープロの登場で文書を電子的な手段で作成するようになってからは、万年筆とは全く無縁の世界に長らくいたように思うのである。

 ワープロの画面上で物事を思考する習慣が身に付いてからも、やはり通常の筆記用具は必要であって、ちょっとしたメモの作成や書類の記入などにはボールペンやマジックペンを使ってきた。しかし万年筆だけは使うことがなかった。

 久しぶりに万年筆を使ってみて、この何とも言えない独特の書き心地の良さはどこから来るのだろうかと私は考えてみた。
 ボールペンでものを書くときはかなりの筆圧を必要とする。しかし万年筆ではそれほど力を入れなくても鮮明な字を書くことができる。長い時間続けて字を書いている人(作家など)には万年筆の方がはるかに楽なことであろう。それに何よりも違う点は、ボールペンでは線が途中で切れてかすれてしまったり、字の書き出しの位置にインクのかたまりが付いて汚れてしまったりすることがあるけれど、万年筆ではそういうことが全く起こらない点であろう。

 もちろん万年筆でもインク切れは起こるが、最近の万年筆はボールペンと同じように着脱式のスペアインクを使う方式になっているので昔にくらべればはるかに使いやすくなっている。私はプログラムの添削を行うようなときは、専らこの万年筆を使うことにしている。

 ところでパソコンやワープロが普及して以来、プロの作家でも手書きではなくワープロを執筆用具とする人が増えてきたようである。しかしここへきてそういった人達の中にも一部ワープロ使用への反省・批判をとなえる人が出てきている。
 ワープロ批判者の中には、自分が実は機械に弱いことを隠すため無理にワープロ批判をしている人もいるであろう。しかし一度はワープロの便利さに触れてそれを書くための道具としてきた人たちのワープロ批判は、これは耳を傾ける価値はあるのではないかと思うのである。彼らの主張の論旨はいろいろあるが、つまるところ以下のようなことであるらしい。

 表音文字を中心とする西欧文化では、ワープロは「書く」から「打つ」行為への転換に過ぎない。しかし表意文字の漢字を用い、ひらがな、カタカナが交じる日本独特の文化では、それをワープロ上で表現するときは表音を「打つ」行為と同音異義語の中から漢字を「選択する」行為とに分断されてしまう。これが思考を絶えずかき乱される原因となるのだという。まるで文章を書いている最中にひっきりなしに電話が掛かってくるようなものだ。書くことを職業とする者には耐えられないことなのだそうである。

 漢字かな交じり文で物事を考える日本人は、意識の方では表意思考を行いつつ、肉体行動の方は表音思考でキーを打つという分裂した状態に置かれてしまっているという。私はプロの作家ではないのでよくは分からぬが、なるほどそういものなのかなぁ。

 確かに同音異義語の選択が、連続的な思考過程を妨げるという指摘は以前から聞いたことがある。「あめがふる」とキー入力したら「雨が降る」になると思っていたのに、実際は「飴が振る」と変換されたとしたら誰でも何だこれは?と思うに違いない。しかしプロの作家だって執筆の途中で辞書を引くなりしていて、たまたま出会った用語に興味を持って脱線していくことだってありうるだろう。どうも私には、同音異義語の選択が引き起こす“思考の妨げ”という指摘がそれほど重大な問題とは思えないのである。そういう意見をはく人は、実は単にワープロの入力変換技術がまだまだ未熟な段階にとどまっているのではないか。それがそもそもの問題の原因ではないかと愚考するのである(「飴が振る」などは明らかにキー入力法が未熟なのだ。そうでないとすれば入力変換で用いる辞書類が未整備なのである)。

 コンピュータと同じように人間の頭脳はある程度はマルチで仕事をこなすことができる。つまり二つ以上の仕事を並行して行うことができるようになっているのである。大抵の人は、少なくとも二つの仕事を同時にやろうと思えばできるはずなのだ。最初のうちは戸惑っていても、慣れるにしたがって自然に身体が反応するようになる。いくら努力しても表音思考と表意思考を交互に切り換えられないという人は、多分シングルタスクしか受け付けない特異な頭脳の持ち主なのかもしれない。

 しかしこういった性格は人それぞれであるから、当人がこの妨げに“耐えられない”と言うならそれはその通りなのであろう。私が反論を試みて議論を吹っかけるべき性格の問題ではないように思える。ただ、これをもってパソコンやワープロを職場や教育の場から追放すべきだという主張へ展開されてしまうと、私にはどうにもついていけない気分になってしまうのである。

 ワープロを使いたくなければ、ただ黙ってペンに持ち替えるだけでよいのではないか。私自身はパソコンやワープロを使っているが、場合によってはペンも使うし鉛筆も使う(*)。特に最近は(前述したように)万年筆をしばしば使っている。そのとき、私は一々声高にその旨を宣言したりなぞはしない。贈ってくれた人たちのことをときどき思い出しながら、万年筆を使っているのはなかなかいいものである。しょせんワープロもペンも書くための道具に過ぎない。どちらを使ってもよいのではないか。むしろ書く内容の方がより重要なのではないかと私は主張したいのである。■
【注】(*)この文書を私はパソコン上のテキストエディタ(ワープロではない)で作成している。そして、ある程度できあがったところでプリント出力し、その紙の上に推敲した結果を鉛筆やペンで書込むということをやっている。