素歩人徒然 西部劇 バーチャルと現実の違い
素歩人徒然
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西部劇


── バーチャルと現実の違い

 米国アリゾナ州の南東、メキシコ国境の近くにトゥームストーン(Tombstone:“墓石”の意)という一風変わった名前の町がある。ここはアープ兄弟とドク・ホリデイがクラントン一家(クリントンの間違いではない!念のため)と争った、かの有名な「OK牧場の決斗」が実際に行われた場所である。

 私は昔から西部劇映画が大好きだった。インディアンを悪役として描く典型的な西部劇が人種差別であるとして批判されて以来、まともな西部劇映画がなくなってしまったのは何とも残念なことである。しかし熱烈な西部劇ファンの私が、夢にまで見たそのあこがれの地を訪れることができたのは(長期出張中の休暇を利用してではあるが)今から思うと真に幸運なことだったと思う。

 普通“牧場”というと大きな広い場所を想像してしまうが(*)、それは小さな町の、とある通りに面したちっぽけな空き地に過ぎなかった。そこに「O.K.CORRAL」と記された看板が素っ気なく掲げられているだけだった。コラール(corral)というのは、牧場というよりも柵で囲われた“家畜置き場”と呼んだ方が相応しいであろう。実際、トゥームストーンという町は駅馬車の中継地だったので、駅馬車を引くための馬を入れておく場所(今で言えば、操車場のようなもの)だったのである。もっとも、「OK家畜置き場の決斗」では何とも様にならぬが。
【注】(*)実際、ジョン・スタージェス監督「OK牧場の決斗(Gunfight at the O.K. Corral)」やジョン・フォード監督「荒野の決闘(My Darling Clementine)」の映画の中ではそのように描かれていた。

 そのひなびた場所で決斗が行われたのはほんの百二十年ほど前のことである。1881年10月26日、ワイアット・アープ兄弟とドク・ホリディが、クラントンとマクローリーの兄弟と対決したのである。撃ち合いは30秒ほどで決着したという。当時の拳銃は精度が悪かったので、そんな狭い場所で撃ち合っても弾はなかなか身体には当たらなかったらしい。結局クラントンは無傷のまま逃げ出してしまった。そしてその後何ヶ月にもわたってアープ兄弟とクラントン一家の間で執念深い銃撃戦が繰り返されたのである。その後ワイアット・アープは1929年まで生存していたという。

 この決闘は、一般には末弟を殺されたアープ兄弟(保安官側)がクラントン一家に対して、正義の名のもとに法を執行したかのように取られているが、実際はそんな単純な事件ではなかったらしい。よその土地から来た新参者(アープ兄弟)と古くから町に住む牧場主やカウボーイ(クラントン一家:守旧派)が敵対し、さらに町の新保安官となったアープ兄弟を面白く思っていなかった郡保安官のジョン・ベーハンが、カウボーイ側につくといった複雑な人間関係の上に起こった事件だったのである。つまり新旧の対立といった構図に基づく、当時の西部においてはどこででも見られたもめごとの一つに過ぎなかった。映画ではこういった史実はさておき、もめごとの原因を単純化することによって理想化された西部のセンチメンタルな物語として構成することに成功したのである。熱烈な映画ファンがこの事件の真相を知りこの現場を見たら、ちょっとがっかりすることになるかもしれない。

 私は映画からあらかじめ仕入れていた知識と現実の狭間で、何とも表現しようのない複雑な気持ちになっていたのを思い出す。こんな場所にわざわざ来るべきではなかったのではないか。映画におけるフィクションの世界で得た理解のままでいた方がよかったのかもしれない。そんなことを考えていたのを今でも鮮明に思い出すことができる。
 ジョン・フォード監督の「駅馬車」が撮影されたモニュメントバレーを訪れたときも驚いたものだ。これは良い方への驚きだったが、映画の狭いスクリーン画面(しかもモノクロだった)では到底表現しきれない程の、途方もないスケールの大きさに只々感激したものだった。往々にして現実の世界は想像していたものとは著しく異なることがある。バーチャルの世界で得た理解のままでは現実の世界で対処できないこともある。
 しかし今となってみると、モニュメントバレーもトゥームストーンも私にとってはどちちらも懐かしい青春の日の思い出となっている。

 マンガの世界やコンピュータゲームなどのバーチャルな世界に没入するのもよいが、現実の世界はそれとは大分違っていることを我々は強く認識すべきであろう。バーチャルの世界と現実の世界の違いがはっきりと理解できていないと困ったことになる。テレビドラマの劇中の人物が簡単に殺されるのを見て、自分も人を殺す経験をしてみたいと称し実際に実行してしまったりする。あるいは学校に銃を持ちこんでクラスメートをあっさりと撃ち殺してしまったりする。そういう子供が多数出てきたのは、バーチャルと現実の境界があいまいとなりその違いに対する理解が根本的に欠けているからではないかと私は思うのである。■