素歩人徒然 書評 趣味と仕事の違い
素歩人徒然
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書評


── 趣味と仕事の違い

 電話とは突然に掛かってくるものである(少なくとも私の場合は)。
 その原稿依頼の電話も突然に掛かってきた。知り合いの編集者からで、10日以内に書評を一つ書いてほしいという。その編集者はお堅い内容で知られる某月刊誌の副編集人をされている。どうやら書評欄に載せる予定の原稿が何らかの事情で欠けてしまったらしいのだ。私のところに依頼が来るということは、つまりピンチヒッターということであって、それはとりもなおさず相当に困った状況にあることを意味する。これは何とか要請に応えてあげなければいけない。しかし10日といえば余りに時間がなさ過ぎる(少なくとも私の場合は)。どうしたものか‥‥。

 そのときふと、最近読んだある本のことが私の頭をよぎったのである。そうだ、あれがいい。私は思い切ってこの依頼を引き受けることにした。普通なら「ちょっと考えさせてほしい」とか言って少し時間をおくべきであったろう。しかしそうしにくい事情があった(少なくとも私の場合は)。以前にも同様の依頼を受け、その時お断りしていたからである。たまには引き受けてあげないと、これから先依頼されることもなくなるであろう(少なくとも私の場合は)。そういう恐れがあったので、私は今回は即座に承諾したのであった。

 以前原稿依頼があったのは、確か「整理法」についての特集記事のときであったと思う。「超・整理法」の発売元として、ここらでもう一度整理法を取り上げることにしたので、コンピュータの立場から一筆書いて欲しいというものであった。その時も引き受けるかどうかでかなり迷ったのである。コンピュータ利用者の立場から、コンピュータ内のファイル管理方法を紹介するのは面白いテーマかもしれない。それくらいのことならいくらでも書くことはあった。しかしこの時も一週間以内にまとめてほしいという厳しい注文がついていた。何で、いつもいつもこんなに締切りが早いのだろう? 多分、編集の最終段階になってコンピュータの立場からの記事が抜けていることに気づき、緊急の依頼となったものと思われる。しかし一週間ではどうしても準備不足で、自信を持って責任のある記事は書けないであろう(少なくとも私の場合は)。それに当時はまだ会社勤めをしている身だったので社外発表の承認を会社から取らねばならなかった。とても一週間では無理であった。

 しかし今や会社は満期除隊となり自由の身である。どこにどんな文章を発表しようと誰からも文句を言われることはない。
 その、以前読んだ本というのは「フェルマーの最終定理」(*1)という本であった。週末の休みに頑張ってもう一度斜め読みし、書評の一つくらい書き上げることはできそうである。そう思って私は早速準備にとりかかった。そして土日の二日程で何とか書評らしきものを書き上げることに成功したのである。その月刊誌の書評欄は今まで読んだことがないので調子は分からないが、まあこんな具合でいいのではなかろうか。後は週明けに出版社から届くであろう最新号を見て、他の書評者の記事を参考に多少の手直しをすればすむ。これで当面の義理は果たせそうだ。そう考えて私はほっとしたのであった。
【注】(*1)サイモン・シン,青木薫訳:新潮社

 月曜の夜外出先から帰ると、出版社からその月刊誌の最新号が届いていた。早速に封を切り書評欄のページを捜す。そのとき私は何やらいやな予感がしたのである。もしや‥‥。そう、もしかして‥‥「フェルマーの最終定理」が既に取り上げられているのではなかろうか。こういう時、いやな予感というのは大抵は的中することになっている(少なくとも私の場合は)。はたせるかな、書評欄の二番目に私は「フェルマーの最終定理」というタイトルを見つけたのであった。それを発見したときの私の驚きと困惑振りを理解してもらえるだろうか。これは困ったことになった。しかも、しかも、ざっと読んでみると私の用意した書評とは比べ物にならないくらい素晴らしい内容なのである。これはもう二重のショックである。う〜ん、参ったな〜。こいつは困ったことになったぞ。このピンチをどう切り抜けるべきか。何か別のものに急遽差し替えなければならない。しかしこのようなショックを受けた直後の心理状態では、かりに代替の本が見つかったとしても、到底まともな書評など書けそうにない。締切りの時間は刻々と迫っているのである。

 ここは冷静に決断しなければならない。無理をせずに原稿の執筆を勘弁してもらうことにしよう。そう決心すると私はすぐさま編集部へ電話し、正直に事情を説明して執筆を断ったのであった。

 後日、副編集人から再び電話があり、今度は正式に書評欄の執筆を担当してほしいという依頼があった。3ヶ月先の10月号からだという。先にお断りした時「もう少し時間を取って依頼してくれないと‥‥」と苦言を呈していたので、それを憶えていてくれての依頼であった。3回連続で「インターネット」や「コンピュータ」関係の本を紹介してほしいという。かくして、締切りに追われる原稿執筆という仕事に取り組むはめになったのである。

 原稿の締め切り日は発行の1ヶ月前である。3ヶ月の余裕があるといっても、あらかじめ原稿を用意しておくわけにはいかない。書評を読んだ読者がその本を読みたいと書店へ行ったとき、その本が手に入らなければいけない。つまり、あまり古い本では書評欄で取り上げる意味がないということである。最近は書店の本の回転も早くなり、売れなければさっさと返本されてしまう(*2)。したがって書評欄で取り上げる本はその時点で(つまり私がこれはと思う本をみつけた時点で)最新のものでなければならないわけである。私は今までそういう本の買い方はしてこなかった。世間の評判や色々な書評(特に新聞の書評欄など)を読んだりして評判の良い本を慎重に選んで購入することにしていた。そういう情報なしにいきなり本を選ぶのは、自分の専門分野の本でない限りかなりのリスクをともなう。これはと思って買った本がそれほどの内容でなく、特に書評欄で取り上げるに値しないものだったということも度々あった。
【注】(*2)発行後70〜90日、つまり3ヶ月以内が勝負である。
 一般に書評というのは、単に本の内容やあらすじを紹介すればよいというものではなかろう。もちろんある程度のあらすじを紹介するのは読者への便宜として必要なことかもしれない。しかし一番大切なのは、その本を読んで評者が感じたことを率直に述べることではなかろうか。それによって読者がその本のねらいや問題点を認識してくれればよいのである。読者がその本を実際に読んでくれることを期待して書いている訳ではない。読んだ積もりになってくれるだけでもよいのである。読者が実際に読むかどうかは別問題なのだ(*3)
【注】(*3)書評を読むと実際にその本を読んでみたくなる。場合によっては読まないと損だと思うことすらある。しかし実際に購入して読んでみると、書評で述べられているほどのこともない単なる駄作であったりする。これなぞは「書評がうますぎた」ということであろうか。

 ところが実際に色々な書評を読んでみると、その本をネタにして自分の意見やかねてからの持論を展開しているものが結構多い。実は、話としてはその方が格段に面白いのである。対象の本を批判しているもの、特に一刀両断に切り捨てているような場合、胸の空くような思いを味合うことができたりする。しかし余程の実力者でない限り、そういう書き方はできないものだ。出版社の方もそういう書評を求めている訳ではない。できれば肯定的に受けとめた書評を期待しているのである。私めのような立場では、あらすじの紹介から始めて肯定的な内容の書評にならざるを得ないのである。

 ところで、私の読書の仕方はどちらかというと比較的じっくり時間をかけて一冊の本を精読するタイプである。いわゆる速読法などとはまったく無縁な読み方をしている。短い時間だが、毎日少しずつ読むことにしている。これは長いサラリーマン生活で、通勤電車に乗っている時間を利用しての読書を長年続けてきたためのかなしい習性なのだ。したがって長い時間を掛けて一冊の本を読了し、しかる後に書評を書くとすると最初の頃の新鮮な印象が失われてしまっていて何も印象的な文が書けないという事態になってしまう(少なくとも私の場合は)。そこで書評を書くために特別にまとまった読書の時間を確保し、心ならずも速く読む努力をしなければならなくなる。しかも、読みながら印象的な部分にはその都度鉛筆で何らかのメモを書き込んだり線を引いたりして、後で参照するときに備えなければならない。もともと私は本を大事にする方なので、本に書き込みをするというようなはしたない行為はしたくないのであるが。

 プログラミングの世界では、自分のプログラムのコード部分に書き込みをするようなはしたない行為をしてはならない。何かを書き込みたければ必ず別に用意したデータ書き込み専用部分に書くようにする必要がある。このようにして作られたプログラムは純手続き(pure procedure)と呼ばれている。純手続きにすると、そのプログラムは再入可能(reentrant)となり、複数の利用者によって同時に共用できるようになる。つまり共用される図書館の本には書き込みをしてはならない。書き込みたければ自分専用のノートを用いよ、ということである。

 よく知られているように、フェルマーの最終定理(*4)は彼が読んでいた本の余白に書き込まれたものである。したがって、そういうはしたない(?)行為にも効用はあるのかもしれない。もし彼がそういった行為をしなかったとしたら、フェルマーの最終定理はどうなっていたであろうか。無論、彼は別のノートに記したであろう。そのノートには十分な余白があったであろうから、彼の証明は後世に残されたに違いない。そしてもっと早くに、その証明の間違いは発見されていたことであろう。
 しかし厳密に言えば、今でも彼がまったく別の方法で証明に至っていた可能性は残されている。そう考えると、本の余白に書き込むのは、やはり避けるべき行為なのであろう。
【注】(*4)フェルマーの最終定理とは、次のようなものである。
     3以上の自然数nに対して
       X+Y=Z
を満たすような自然数X,Y,Zは存在しない。
 この定理はアンドリュー・ワイルズにより、1994年(正式な論文が公表されたのは1995年)肯定的に証明された。
 ピエール・ド・フェルマー(1601-1665)は、ディオファントスの大著『算術』(全13巻からなる。1621年に刊行されたクロード・ガスパール・バシェの翻訳によるもの)の第2巻を読んでいて、その余白にこの定理について次のように記した。「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」
 このようにして(どう、このようにしてなのか、いささか不明瞭ではあるが)、私は悪戦苦闘の末に三回分の書評を無事に書き終え、何とか自分の責任を果たすことができたのであった。しかし毎月一回の割合で本を読了し書評を書くというのは(少なくとも私の場合は)かなり骨の折れる大変な作業であった。あらかじめ書きためておくことはできないし、部厚な本を対象に選んでしまったときなど私は(不埒にも)第1章だけ読んで書評をまとめることができないものかと何度思ったことであろうか。しかし作家のA氏は、どうやら全部読まないで書評を書いているらしいから、これはそれほど不埒な行為ではないのかもしれない。『最初の章を読んだだけで書評を書く法』などという本があったら売れるのではないだろうか(*5)
【注】(*5)最近の本のタイトルは長いものが流行っているから、その点でもこの本は売れそうである。この本の書評を書いてくれる人がもしいたとしたら、彼(女)は早速にこの方法を実践して素晴らしい書評を書いてくれることであろう。
 しかし執筆を終わってみると、書評を書くという義務感を持って本を読むのはなかなかにプレッシャーを感じるもので、まずもって楽しくないのである。それまでの気楽な読書とは違って、まったく読書そのものを“楽しむ”ことができなかった。これはプログラム作りでも言えることではないかと思う。少なくとも私の場合は仕事でプログラム作りに取り組むのも、趣味で取り組むのも同じようなものだとこれまで思ってきた。しかしリタイヤしてみて、そして書評作りを経験してみて、初めて分かったのである。趣味でプログラムを作る方が何倍も楽しいということを。■