素歩人徒然 新米教師 私語は死語になるか?
素歩人徒然
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新米教師


── 私語は死語になるか?

 母校の講師を務めるようになって早2年半が経とうとしている。3年近くもやっていると、もはや「新米教師だから‥‥」などと言って自らの教え方の未熟さを言い訳するのも難しくなってきた。
 会社勤めをしている頃から大勢の人の前でしゃべるのは慣れているので、さほど苦労することはない。しかし企業人を相手にするのと学生を相手にしゃべるのとでは難しさの点でかなりの違いがある。最も大きな違いは、まず学生の場合には「私語」、「居眠り」、「遅刻早退」がやたらと多いことであろう。これらは企業の場合にはまず考えられないことである。

 もちろん企業でも集合教育の場などで居眠りをする者はいる。しかし少なくとも、講師には分からないように眠るくらいの最低限の礼儀は皆心得ている。いや、もう少し正確に言えば、姿勢を崩さず視線を落して目をつむっていれば、たとえ眠ってしまっても講師には気づかれないと本人がかたく信じているだけのことなのだが(講師からはすべてお見通しなのである)。しかし学生の場合は、最初から全面降伏してしまって机に突っ伏し堂々と眠っているのである。これには最初の頃は相当に頭に来た。つまり私の講義が面白くないからと“抗議”しているようなものだからである。

 他の先生方に聞いてみると、どの授業でも同じようなものだという。注意しても効果がないから皆放っておくのだそうだ。その忠告にしたがい私も最初の頃は無視することにしていた。しかしそのうちに、これではいけない、断じて見過ごしにはできないぞと思うようになってきたのである。そこで、自ら肩をたたいて起こしたり隣に座っている者に起こすよう促したりするようになった。起こされて注意されると彼らは一様に不思議そうな顔をする。今まで注意されることがなかったらしい。これを長年(と言ってもまだ2年程だが)続けていると、段々とその成果が現れてきて、居眠りをする者の数が次第に少なくなってきたように思うのである。

 遅刻早退もひどいものだ。授業時間の最初で出席を取ると、取り終わったら直ぐそのまま出ていってしまう。こっそりと姿を消すのならまだ可愛げもあるが、堂々と出ていくのだ。授業の最後に出席を取るスタイルに変えると、今度は授業の終り真近にやってくる。こういった不届きな学生に対処するにはどうしたらよいか。出ていく学生をいちいち呼び止めていたら授業にならない。授業の途中で抜打ち的に出席用紙をまわして記名を求めると、携帯電話を使って脱走した学生を呼び戻す仲間がいたりするので、さしもの私の努力もふいになる。こういう点にかけては先生より学生の方が数段上手(うわて)なのである。

 しかしこちらも負けてはいられない。そういう時、自動改札機で使われている技術が役に立つのである。学生には鉄道会社で使われている自動改札機のソフトウェアの話を一度はすることにしている。最近は技術が進歩してどんな種類の不正行為も逃さず検出することができる。ただ、不正乗車の客は直ぐ捕まえないで見逃して泳がされているだけなのだと。だから絶対にキセル行為などしてはいけませんよと諭すのである。私としては暗に遅刻早退という不正行為をはたらいても必ず分かりますよ(*1)と示唆しているつもりなのであるが。それにも関わらず“脱走”を試みる輩は後を絶たず、結局彼らは期末になって単位を取りそこなったことに気が付き愕然とするのである。自業自得というべきであろう。

【注】(*1)つまり最初と最後を確実に押さえればよいのである。

 このように「居眠り」と「遅刻早退」とは何とか対策することができる。しかし「私語」(つまり仲間同士のおしゃべり)の方はどうにもならないのである。いくら注意してもおしゃべりをやめようとしない。なぜやめないのか、私には本当に不思議でならないのである。名指しで注意すれば効果があるのは分かっているが、企業の場合と違って学生は胸に名札など付けていないので名前が分からない。顔を憶えていても数百人単位が相手では何の役にも立ちはしない。

 私は思うのである。どうやら学生にとって講義を受けるという行為は、テレビ番組を見るのと同じ感覚のものであるらしい。テレビでは聞き手のマナーは問われない。自分は何をやっていても自由なのだ。テレビ画面の向こうで先生がどんなに熱心にしゃべっていても何ら意に介さない。だから講義を聞きながら時々周りの人とおしゃべりをする。いや、おしゃべりをしながら時々テレビ画面(講義)を見ると言う方が正確かもしれない。テレビ画面の中で何が起っていようと我関せずで仲間とのおしゃべりを続けることになる。何か重要な場面を見逃しても後でビデオを借りて、つまりノートを借りて見れば済むじゃないかという訳である。

 ノートを借りると言えば、最近の学生はノートを取らないから配布資料で工夫をしなければならない。配布資料には重要な項目のタイトルだけを書き並べておいて詳細はOHPやパワーポイントで表示するようにする。そうやって自らノートを取るよう仕向けても、今度はその表示された資料を学内のウェッブ上に置いてダウンロードできるようにしてくれと要求してくる始末である。断じてそんな不精をさせるものか!

 一方その“テレビ”に情報を送る側の私めは、視聴者が見てくれないからと言って怒ったり、講義を中断して情報を送るのをやめてしまったりすることは絶対に許されない。何とも因果な商売ではないか。
 テレビは双方向通信の機能を備える時代となってきた。これがどこまで進歩するのか私にはまるで分からない。いずれは茶の間(古いなぁ!)にいても、ただ漫然とテレビ画面を眺めているだけでは済まない時代になるのかもしれない。常にテレビ画面からレスポンスを求められるようになるのであろうか。始終緊張を強いられてうっとうしいことである。そうなると、テレビの視聴者にもそれなりのマナーが求められるようになるであろう。そして、そういう環境で育った子供達が大学生になる頃には、授業の内容も双方向の議論が活発となり、私語などする者はいなくなるであろう。私語という言葉も“死語”になる。いやいや、それほど甘くはなかろう。この点ばかりは懐疑的にならざるを得ない。残念なことである。■