素歩人徒然 法隆寺 絶対的な物差し
素歩人徒然
(34)

法隆寺


── 絶対的な物差し

 最近、法隆寺や聖徳太子に関係する話題で新聞紙上がにぎわっている。たとえば「聖徳太子は実在しなかった」とか、後で詳しく触れるが「法隆寺心柱のなぞ」などである。
 法隆寺というと、中学生時代には修学旅行で必ず行く場所であった。私が最近訪れたのは確か6年程前のことで、法隆寺国宝特別公開(*1)という催しがあったときのことである。法隆寺金堂と聖霊院の内陣、それに四騎獅子狩文錦(しきししかりもんきん)が見られるというのが催しの目玉となっていた。妻が私にこの見学ツアーへの参加をすすめてくれたのは、参加募集の締切りがまじかに迫ってからのことであった。出不精で普段から腰の重い方なので、妻はどうせ私は興味を示さないだろうと思っていたらしい。それが案に相違して参加したいと言う。それであわてて申込み手続きをしたので、締切り寸前の滑り込みで何とか予約がとれたというのが本当のところである。後から考えると実に運が良かったというべきであろう。
【注】(*1)平成7年10月7日から同年11月5日まで開催。

 この催しは法隆寺大修理のための資金集めが目的であった。この種の催しとしては「法隆寺の元禄大修理」が有名である。寺社の修繕費用を捻出するために法隆寺がご開帳を行ったのは元禄3年(1690年)のことである。そのときは最も神聖な建物として門戸を固く閉ざしていた金堂の南正面を開扉し、夢殿の内陣や聖霊院を公開したという。このご開帳は大変な反響を呼び大成功を収めたので、4年後の元禄7年には「江戸出開帳」を江戸の本所回向院(ほんじょえこういん)で行った。これがまた大成功して伽藍の大修理を行うための費用をまかなうことができたのであった。

 ご開帳とは、寺院や神社が日ごろ厨子や堂内に安置している神仏や宝物を一定期間、公開して広く人々に拝観を許すことである。出開帳とは、寺社が秘蔵している仏像や宝物を江戸、大坂、京都などの繁華街にある寺院へ運び、一定期間それを広く庶民に公開することをいう。いずれもそれを行うことによって一つの信仰を広く布教することが目的であったが、次第に浄財を集めて寺社の建物の修理費を捻出するためのものへと変化していった。

 そのようなことから平成7年(1995年)の秋、「法隆寺の平成のご開帳」が行われることになったのである。今回のご開帳の目玉は、聖霊院のご本尊「聖徳太子(摂政)像」のご開扉、宝蔵殿北倉に秘蔵している秘宝中の秘宝である国宝「四騎獅子狩文錦」と重要文化財「蓮池図」、「伎楽面」などである。その他、国宝の「釈迦三尊像」、「薬師如来坐像」、「四天王立像」、「毘沙門天立像」、「吉祥天立像」、重要文化財の「阿弥陀如来坐像」などが見られることになっていた。

 そして最も画期的だったのは、金堂内陣への入堂が許されたことであろう。例の、焼失してしまった壁画は金堂内に再現されていたが、そのときは再現壁画が東京へ貸し出されていたため、たまたま金堂内に一般人が入っても差し支えない程の隙間ができていたのである(運が良かった)。堂内は非常に狭くて壁画があったら身体に触れてしまい、到底一般公開は許されなかったであろう。天井から吊されている三つの天蓋とそれに付属する天人の姿や鳳凰など、普段では決してまじかには見られないものをじっくりと見ることができたのである。法隆寺の謎の一つとされる「伏蔵」も見ることができ、私にとってはまたとない素晴らしい体験をさせてもらえた(本当に運が良かった)。

 さて、見学の最後がいよいよ聖霊院のご本尊「聖徳太子像」である。この聖徳太子像坐像は百年に一度しか公開されないことになっている。見学はいくつかのグループに分かれ、時間割にしたがって小人数での入場が原則となっていた。先にも記したように、私は申し込み手続きが遅れたので参加した日は催しの最終日であった。しかもその最後のクループになっていたのである。そろそろ日も傾きあたりが薄暗くなる頃になって、やっと自分の見学の順番が回ってきた。何しろ公開は今日が最後で、最後の日の最後のグループなのだから待たされるのは仕方のないことであろう。

 聖霊院の中の狭い廊下を通り聖徳太子像が安置されている部屋に入る。部屋は外からの明かりのみで中は薄暗くなっていた。畳敷きの部屋の上座に御簾がある。その御簾が上げられた向こう側に厨子があって、その中に高さ約84センチ(というから原寸大なのであろう)の聖徳太子坐像が鎮座していた。聖徳太子の顔と言えば、昔の一万円札に描かれていた顔が有名であるが、この聖徳太子像はもっと若い時代のもので凛々しい美少年という感じのものであった。若々しく鋭い眼をしていて非常に印象的である。この坐像の圧倒的な実在感に接すると、最近話題になっている「聖徳太子は実在しなかった」などという説は私には到底信じられないことである。

 この日の公開が終われば厨子の扉は閉じられ、あとは御簾を降ろすだけで部屋は百年間閉じられたままとなるのだそうである。そのままの姿勢で百年間も暗闇の中でただただ次の公開の日を待ち続けるのである。この像をもう二度と見る機会はないであろう。私のノートパソコン上のスケジュール管理ソフトによれば百年後のこの日は、おや、何の予定も入っていない(運が良かった)! しかし予定というものはその日になってみないと分からないもので、きっとよんどころない事情があって見学はできなくなっているであろう。これで見納めなのである。見終わって一度は外に出たものの、私はもうこの先見られないのかと思うと何か惜しくなり再び部屋に引き返した。そしてもう一度じっくりと坐像の姿に見入って、その姿を自分の眼にしっかりと焼き付けたのであった。

 ところで、この法隆寺にある五重塔の中心を通る心柱(しんばしら)が、西暦594年に伐採されたヒノキで作られていることが、年輪年代測定法により最近明らかとなった。法隆寺は609年頃に聖徳太子が創建し、670年に一度焼失したが711年頃に再建されたというのが定説となっている。なぜ百年以上もさかのぼった古い柱が使われていたのか、新たな謎となっているのだそうである。

 年輪年代測定法というのは、樹木の年輪を利用して遺跡や出土品、建造物などの年代を調べる方法である。樹木は年ごとの気候の変動によって年輪の幅が広くなったり狭くなったりする。同じ樹種であれば、この変化のパターンは地域差が少ないのだそうである。伐採年がはっきりしている木の年輪データを集め、これと照合することにより発掘された木材資料の年代(正確には伐採年)を知ることができる。日本ではスギやヒノキなどの樹種が多いが、スギでは紀元前1313年まで、ヒノキの場合は紀元前912年までさかのぼる年輪資料の絶対的な“物差し”ができているという。数世紀にも渡る古い木造建築の建設年代が、このように1年の単位で精密に算出できるというのは考えてみれば凄いことである。

 私は常々思うのである。ソフトウェア技術者の能力も、こういった誰も異議を差し挟むことのできない絶対的な物差しで測れないものかと。特定の企業内でいくら能力があっても、社外の物差しで測るとまるで通用しない人もいる。国がすすめている情報処理技術者試験による各種の資格などは、そういった意味では共通の物差しになるものかもしれない。しかしこれとても日本国内でしか通用しない資格である。もっと広く、海外でも活躍できるレベルの技術者であるかどうかを測る物差しにはならないであろう。これからワールドワイドに活躍できる優れた技術者となるには、英会話力なども含めたコミュニケーション能力が求められるからである。

 そういえば最近の新入社員は、正式内定から入社までの間も会社指導のもとでプログラミングを学んだり英会話の勉強をさせられたりしている。彼らは入社前から苦労しているのだ、大変だなぁ、と私はついつい同情してしまうのである。はるか昔のことになるが私の新入社員時代には、そんなふうにしごかれることもなくのんびりとした時代だった。そんなことが妙に懐かしく思い出されるのである(運が良かった?)。■