素歩人徒然 教授室 話しを聞く
素歩人徒然
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教授室


── 話しを聞く

 H先生の教授室の前に立ちそのドアを叩くのは、私にとってこの上なく緊張する瞬間である。これは学生時代だけの話しではなく、今に至っても何ら変わるところがない。先生が特別に厳しい方だからという訳ではない。むしろ逆で、今まで厳しくしかられたことなど一度としてない。それなのにこのように緊張するのは、多分恩師に対する畏敬の念がそうさせるのであろう。

 私が初めて、それも一人だけで教授室を訪れたのは、確かゼミで使う論文の原著をお借りするためであったと記憶している。自分の担当部分の論文コピーを読んでいたら、どうしても付録(アペンディクス)の部分を参照しなければならなくなった。コピーにその部分は含まれていなかったので原著を借り出して書き写させてもらおうと思ったのである(当時はまだコピーはそう簡単にはできなかった)。そのときの先生とのやりとりはまったく覚えていない。しかし教授室の前に立ちそのドアをノックしようとした瞬間の、あの緊張感だけはいまだにありありと思い出すことができる。

 卒業して社会人となってからも、仕事の合間に、あるいは仕事にかこつけて何度となく先生の部屋を訪れた。長い年月の間には、教授室がある場所も別の建屋に移ったりして何度も変わったが、神楽坂の理学部へ行けば何時でもH先生にお会いできるというのは、私にとって何事にもまさって安心感を与えてくれる精神安定剤のようなものになっていた。考えてみると恩師がいつも母校にいてくださるというのは、これは極めて希なことであり、また幸運なことだと思うのである。

 特段の用事があるわけでもなくアポイントメントも取らずに突然訪問する。あるときなど部屋を覗くと先生は学生達とゼミをやっている真っ最中であった。帰ろうとする私を押しとどめ先生はすぐさまゼミを中断し、しかも学生達を全員部屋から追い出してしまって私の話を聞いてくださるのであった。何とも申し訳なくて、また先生の深い心遣いが伝わってきて私はひたすら恐縮するばかりであった。

 予約も取らずに行くので訪問が空振りに終わることもしばしばであった。緊張感のかたまりのようになってドアを叩くが何の反応もない。ドアは冷たく閉ざされたままである。事務の女性に聞くと、先生は今日は不在ですと教えてくれる。こういうときはちょっとがっかりするが、同時に緊張感が解けてホッとし、ちょっと安堵したようなちょっと悔しいような不思議な気分で部屋を後にするのであった。

 H先生が経営学部に移られてからは、神楽坂へ行くこともなくなったが、私の方が経営学部のお手伝いをすることになったので今度は経営学部で毎週お会いするようになった。経営学部では、在室のときはいつもドアが開いているので、廊下を歩いていて先生の部屋の前を通ると中で学生から何か質問を受けている姿をよくお見かけしたものである。しかし先生が非常勤になられてからは、とうとうその教授室もなくなってしまった。残念なことである。もはや、先生の部屋の前に立ち緊張しながらドアを叩くという経験もできなくなってしまったことになる。

 先生の部屋がなくなってからは、先生には教員控室でお会いすることが多くなった。先生は、授業で配布する資料を自らコピーされていたりする。その後ろ姿に向かって私が何気なく話し掛けると、先生はコピー機の前を離れ、私が座っているソファーのところへやってくる。そして私の隣りに座り、いろいろと質問に答えてくださるのであった。しばらくすると先生はまたコピー作業を始められる。また私が話し掛ける。するとまた先生は隣りに戻ってきて、新米教師である私に授業の進め方についていろいろとアドバイスをしてくださるのであった。

 そのとき私は初めて気がついたのである。うっかり者の私は、それまでまったく気がつかなかったのだ。先生は私が話し掛ける度にコピー作業を中断し、私の隣りにもどってきて私の話を真剣に聞いてくださっていたのである。一方私は、先生はコピー機を自動設定にして戻ってこられたと誤解していたのである。私は何ということをしていたのか。私が何気なく話し掛ける度に、先生のコピー作業は中断させられていたのである。

 私はこのとき、教師が学生に接するときの態度について、身をもって教えられた気がした。自分はこれまで、これほど真剣に学生の話に耳を傾けていただろうかと。なるほど教師とはこうでなくてはならぬのだと私は深く感じ入ったのであった。卒業後数十年も経つのに、私はいまだにこのようにして先生に教えられている。もはや教授室のドアを叩いて教えを乞うことはできないけれど、日々先生の上に教師のあるべき姿を見つけて教えられている毎日である。こういった姿に少しでも近づきたいものだと願いながら。■