素歩人徒然 般若心経 基本要素
素歩人徒然
(45)

般若心経


── 基本要素

 義父の家の客間には般若心経の全文が書かれた書が飾ってある。縦1メートル横2メートル程もあろうかという大きなもので義父が78歳の時に書いて表装してもらったものである。しかし不思議なことに般若心経の最後の方の1文字(“曰”)だけが欠けている。書き忘れたのであろうか。
 何事も完璧に仕上げてしまわないで、どこかに未完成のままのところを残しておくという考えなのかもしれない。

 般若心経というのは、八万四千余りあるといわれる仏典中でも最短のものだそうで、わずか二百六十二文字(*1)からなっている。この短い字数の中に仏の教えの真髄が余すところなく述べられているわけである。お経をとなえるときこれさえ憶えていればよいのだから至極便利なものである。我々でも簡単に憶えられるくらいの長さのものだ(あえて憶えようとすればの話だが‥‥)。

 この中に「照見五蘊皆空度一切苦厄(しょうけんごうんかいくうどいっさいくやく)」という表現がある。五蘊(ごうん)というのは人間をとりまく世界を構成している五つの力・作用のことだという。つまり「五蘊は皆空なりと照見したまい(見極め)一切の苦厄を度したもう」というくらいの意味であろう。

 この五蘊を構成する五つの力とは、具体的には現象界に存在する「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」のことで物質と精神の諸要素を指している。

つまり、
 色蘊(しきうん)が物質及び肉体(目に見えるものの世界)
 受蘊(じゅうん)が感覚・知覚(受け止める働き)、
 想蘊(そううん)が概念構成(伝達、ものを想う作用)、
 行蘊(ぎょううん)が意思・記憶(実行する力)、
 識蘊(しきうん)が純粋意識(認識作用)、
のことであるという。

 私がまだ会社勤めをしていた頃のことだが、ある先輩がこの「五蘊」をとりあげてコンピュータを構成する基本要素(入力、出力、判断、記憶)と対比させていたのを思い出す。“受”が入力処理、“想”が判断処理、“行”が出力処理、“識”が記憶に相当する。そしてこれら全体を包括するものとして“色”がコンピュータのハードウェア全体に相当するというのである。

 

 そのときの私の知識では「なるほどそんなものか」という程度の理解しかできなかった。「色受想」あたりは分かるが「行」や「識」となるとどうもよく分からない。意思・記憶と出力処理がどうも結びつかないように思えたからである。「少し無理があるかなぁ。しかし面白い見方だ」というのが、そのときの私の率直な感想であった。

 しかし最近のコンピュータの動向やソフトウェアの技術進歩を見ていると、これはもしかしたら当たっているかもしれないと思うようになった。私の解釈では次のようになる。

 

 最近のコンピュータでは「ビジブル」ということが重視され、実行結果を表示する出力画面が利用者にとっては「実行」そのもののように捉えられる。まさに“行”が出力装置に相当すると言えるのではないか。
 一方、記憶装置は単なるメモリではなく膨大な知識データベースと捉えると、その上での検索や認識処理がまさに“識”に相当する。そしてこれら全体を管理し制御するのが“色”ということになる。

 「五蘊皆空」ということはこれら一切が空であるということになる。つまり形あるものは必ず滅するというのが「五蘊皆空」の思想である。コンピュータ業界から足を洗った今でも、私にとってあれ(コンピュータシステム)が“空”であったと実感するにはまだまだ時間が必要のようである。■

【注】(*1)般若心経の全文は以下の通り
     摩訶般若波羅蜜多心経
     観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五
     蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不
     異色色即是空空即是色受想行識亦腹如
     是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄
     不増不減是故空中無色無受想行識無眼
     耳鼻舌身意無色聲香味觸法無限界乃至
     無意識界無無明亦無無明盡乃至無老死
     亦無老死盡無苦集滅道無智亦無得以無
     所得故菩提薩垂依般若波羅蜜多故心無
     堯礙無堯礙故無有恐怖遠離一切転倒夢
     想究境涅槃三世諸佛依般若波羅蜜多故
     得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜
     多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等
     呪能除一切苦眞實不虚故説般若波羅蜜
     多呪即説呪曰
     羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
     般若心経