素歩人徒然 寿命 古老の知恵
素歩人徒然
(49)

寿命


── 古老の知恵

 1月末の寒い日に義父が亡くなった。
 95歳の高齢(*1)で、最後の時を病院のベッドの上で迎えたとはいえ、特に苦しむこともなく長い間燃え続けたろうそくの火が燃え尽きるかのように、気が付いたらいつの間にか呼吸が無くなっていたという感じのおだやかな死であった。こういうのをまさに「天寿を全うする」と言うのであろう。

【注】(*1)あと2週間生きてくれれば96歳になるところだった。

 葬儀、四十九日の法要と納骨、そして遺産の後始末などの一連の勤めと手続きが終わり、家族の者達もやっと少し落ち着きを取り戻したところである。
 振り返ってみると、この世に生を受けてから約96年もの長い間、義父の心臓は休みなく動き続けていたことになる。呼吸がなくなってからもしばらくの間、義父の心臓は反応していたというから、これは本当に凄いことだと思う。酒と読書をこよなく愛し、健康を維持するための特段の運動もしていなかったのに、このように長生きできたのはやはり天性の資質によるものではなかろうか。

 ところで、たいていの生物は種の保存のために必要な期間が過ぎれば死んでいくことになる。生殖可能な期間が過ぎるか、あるいは子育ての期間が終われば親としての役割は完了し世代交代をしていくのである。これは食物が限られている厳しい環境の中で種を確実に保存していくためには必要なことだったのであろう。しかし人間は子育てが終わってからもなお生き続け120歳くらいまでは生きられるという。身体の大きさの割には例外的に長寿な生き物なのである。なぜ人間のみがそういう資質を獲得できたのだろうか。

 人間は、塩基配列のレベルで比較するとチンパンジーとたいして違わない。DNAの上では約1.8%の違いしかないという。しかし脳の大きさはチンパンジーの約3倍はあるのだそうである(*2)。つまり身体を構成している材料はほとんど同じなのに脳の大きさの違い(言い換えれば脳の優秀さ)だけで、さるとは比較にならぬほどの長寿の資質を獲得していることになる。

【注】(*2)哺乳動物では、体重あたりの脳の重量比と最大寿命はよく比例するという。

 脳におけるどのような違いが、人間とさるの進化の違い(あるいは寿命の違い)となって現れたのかというと、それは脳内の神経細胞の分裂回数を制御する遺伝子の働きと、記憶にとって必須の条件とされる脳の柔軟性を維持する遺伝子の働き、この二つによると言われている。つまり記憶容量の大きさとその仕組みが重要なのである(これはコンピュータも同じだな)。特に人間は、成熟した後でも(たとえば60歳以上になってからでさえも)物事を記憶し推論する能力(つまり細胞の分裂と柔軟性)が維持されているのだから、考えてみれば驚くべきことである。

 神経細胞が分裂を続けることができれば、脳の“記憶容量”は大きくなる(そうか。だからコンピュータのメモリもある程度以上大きくなければいけないんだ)。そして脳の柔軟性を維持できれば、脳内の記憶同士を統合して新たな知恵として発展させることができる。知恵は入れ替わることのない神経細胞を作り出すから、これは細胞の死を防ぐことにつながる。つまり脳の機能を高めれば老化しにくくなるという訳である。

 その結果、長生きすればするほど多くの情報が脳内に蓄積され、過去の様々な経験から得られた知恵と統合され、厳しい環境の中で生き延びるための“より正しい判断”ができるようになる。したがっていわゆる“古老の知恵”が尊重されるような社会が存続してきたのである。そして、そのような社会に属する者だけが厳しい環境の中を生き抜くことができたのであろう。つまり長寿のきっかけとなったのである。

 このような脳内に保存された情報は、古老の知恵を尊重する習慣が維持されている社会では、少なくとも3世代くらい(約100年くらい)は子孫に受け継がれていくであろう。しかしそれ以上となると難しくなる。そこで人間はこれらの情報を脳内ではなく脳の外に保管する方法を考え出した。このようにして人間は自分の創出した文化を後世に残し、後世の人はその上に更に新しい文化を積み上げることによって(あるいは場合によっては破壊することもあったろう)、より高度な文明を築き上げ進化してきたのである。

 自分の身体の外に(つまり外部記憶上に)情報を保存し後世に残すという方法は、人間のみが考え出した素晴らしい仕組みなのである。しかしこれは必ずしもいいことばかりではなかった。昔の記録が残されていることにより、数百年前の出来事をあたかも自分が体験したかのごとくに憶えていて、パレスチナ問題等で見られるように、いつまでもその時の怨念を抱き続けて殺し合いを続けることになったりする。どんな生物も互いに殺し合いをするが、数百年前に起こった出来事を理由にして殺し合いを続ける生物は他にはいないであろう。

 コンピュータ上に構築された情報に対しても同じようなことが言えるのはなかろうか。我々は新しいコンピュータに代替わりするたびに、古いマシン上のファイルを新しいマシン上に移行させる努力をしている。しかし私の経験では、そうやって移行できるのは精々3世代くらいまでではなかろうかと思う。技術進歩のためには過去のしがらみに縛られたくないという理由で積極的に捨てる場合もあろうが、普通は古いファイルは何となく使われなくなり、忘れ去られたりして自然に捨てられ消滅していくのではなかろうか。

 そうであってはいけないと思い、私は自分の情報ファイル(残念ながら、他人が見ればちりあくたばかりであるが)をできるだけコンピュータ本体から切り離して外部に保存する努力を重ねてきた(*3)。その場合に問題となるのはどのような媒体上に保存するかである。最近では大容量の外部記憶装置がいろいろと出てきている。たとえばDVD等が最も有力であるが、記録方式が日進月歩で変化している現状では、まだまだ安心して使えるものにはなっていないように思う。

【注】(*3)もっとも、私が保存する真のねらいは、後世に情報を残すためではなく自分のファイルをただ失いたくないだけなのであるが。

 そこで私はウェブ上に保存することにした。ウェブ上に情報倉庫(*4)を設けてそこにせっせとアップロードしておくのである。アップロードする時期は「コンピュータ破壊が起こる直前」が最適(?)であることを、私は自分の長い経験から賢くも悟ったのである。この事実(法則と言っても良い)さえ知っていれば、いつ何時自分のコンピュータが壊れても決して情報を失うことはない。

 しかしウェブ上にアップロードするには結構時間がかかる。そこでできるだけ圧縮ファイルにしておくことにした。ただ、最近ふと気が付いたのだが、将来この圧縮ファイルを復元しようとして解凍するとき、解凍プログラムが動作する環境が必要となる。もしこれが残されていなければ内容は取り出せないのである。しかしそういう事態になるのは自分が予想外に長生きしてしまった場合のことだろう。私はそれほど長生きしそうにないから、まあそんな心配は杞憂であろう。
 それにしても情報ファイルをコンピュータ本体から完全に切り離すのはなかなかに難しいものである。

【注】(*4)たとえば、■■■■■■ など無料で使えるものがある。

 更に悪いことに、こうして何でもウェブ上に保管する習慣が身に付くと、今度は逆に何か情報が必要になるとすぐウェッブ上を捜しまわるようになる。何か知りたいことがあると検索エンジンを使って簡単に目指す情報源を見つけ出すことができるから、あえて人に聞かなくても済んでしまう。ウェッブ上から何でも情報が得られれば、なにも年寄りに敬意を払って“古老の知恵”に期待する必要もなくなってくるということであろう。年寄りの身には、さびしいことではある。■