素歩人徒然 イラク 立派なリーダー
素歩人徒然
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イラク


── 立派なリーダー

 新聞誌上で“イラク”の文字を見ない日はない。イラクの大量破壊兵器から始まって、イラク査察、イラク危機、イラク攻撃、イラク戦争、イラク開戦、イラク戦争終結、イラク支援、イラク新法、‥‥。まだまだ続くであろう。

 バグダッド陥落と同時に始まった略奪のニュースには心痛むものがあった。普通、戦時の略奪と言えば攻め入った側が行うのが常であったが、今回は攻め込まれた側の人間が行っているのが特徴的である。おそらく、これまで虐げられてきた人民の怒りが爆発したのであろう。しかしイラク国立博物館の展示物が略奪されたというニュースには心底怒りをおぼえた。思わず心の中で悲鳴を上げたくなるような気持ちになったものである。その後のニュースによれば、あらかじめ避難してあったので大部分の物は盗まれずに済んだという。それを聞いてほっとしたが、それでもかなりの数の貴重な遺物が失われたらしい。石油省の建物を守るより博物館を守る方が先ではないかと思うのである。

 太古の昔から人類は盗掘という行為を繰返してきた。そこに墓があると分かれば必ず何か金目の物があると信じて掘り返した。しかしそれも昔のことで、今や一度博物館に保管されてしまえば二度と再び被害に合うことはなかろうと思っていたが、それでも安全ではなかったことになる。現在でも盗掘は繰り返されているのである。人類のDNAには、盗掘をするという性質が書き込まれているのではなかろうか。理性とか倫理観とかがなくなれば、我々も本能のおもむくままに略奪を行うようになるのであろうか。

 ところで、イラクと言えば私には苦い思い出がある。昔、イラクにコンピュータを売込むプロジェクトに関係したときのことである。確か相手はイラクの政府関係の機関であったと思う。そこに(当時の尺度での)大型コンピュータを売込むことになった。
 当時私はプログラム言語の処理系(つまりコンパイラ)の開発を担当していた。コンピュータはまだ日本語を扱えなかったので、コンパイラはすべて英語が前提で作られていた。したがってイラクで使うからと言っても、処理系の方に特別な変更は必要なかった。しかし利用者に渡す説明書は日本語のままという訳にはいかない。そこでマニュアル一式を英訳するのが私の仕事になった(サラリーマンはつらい)。英訳の作業は大変な仕事だったが、何とか一人でやり遂げることができた。このときの経験はその後の私の仕事に大変役立ったと思っている。

 これでお役御免になるかと思ったら、そうはいかなかった。イラクから事前研修に来る技術者にプログラム言語の教育をしてほしいと言われたのである。しゃべるのは英語でよい(!)という。私はアラビヤ語にはいささか知識があった(*1)が、英語で一週間講義するというのはかなりの重荷であった。しかし断る訳にもいかない(サラリーマンはつらい)。
【注】(*1)誤解のないように記しておくが、私が詳しいアラビヤ語とは、記数の表現法だけである。


 15名ほどのイラク人技術者を相手にしたプログラム言語教育は、いろいろと苦労を重ねながらも無事終了しようとしていた。その最後の日の最後の時間に、私はテストをすると全員に伝えたのである。すると彼らは驚くべき反応を示した。リーダー格の男が代表して立ち上がり、私にテストを拒否すると言うではないか。
 この突然の宣言に呆気にとられた私は、何と言っていいか分からずしばらく声が出なかった。「ザケンナ!ふざけるな!」と叱り飛ばそうかとも思ったが、彼らは大切なお客様である。何とか冷静に対応して説得しなければならない。
 講義の最後にテストをするのは、講義内容がどの程度理解されたかを知るためのもので、どちらかと言えば教える側の反省材料を得るのが目的である。最近では「理解度テスト」などと呼ばれていて、この種の教育ではよくやることだった。

 私は、テストをする目的を詳しく説明し了解を得ようと試みた。しかし彼らはいっかな耳を貸そうとはしなかった。どうしてもテストを実施するのであれば、答案を全員白紙で提出するという。彼らは自分たちが試験の結果で序列を付けられるのを極端に恐れていたのである。

 ここに至って、私はテストを断念せざるを得なかった。彼らはお客様であるからここは気持ちよく帰ってもらうしかない。そう思ったのである。
 それにしてもイラクとは一体どういう国なのか、私には到底理解ができなかった。当時のイラクの政治情勢がどうなっているのかについて私は全く知識がなかった。当時の日本ではほとんどの人が私と同じ状況であったろうと思う。ただ私には、国民が自ら競うことをしようとしない国では、その国の将来の発展は望めないだろうなぁと漠然と考えたのを憶えている。
 結局こういった努力の甲斐もなく、イラクからは受注できなかったと記憶している。

 この時の苦い経験を、私はその後誰にも話したことがない。それは自分の説得不足が原因ではなかったか、という不甲斐ない思いがずっとあったからである。それに、特定の国の印象について軽々しく発言すべきではないという思いもあった。全世界規模で仕事をしている企業にあっては、たとえ観光旅行でのちょっとした個人的経験に基ずく(批判的な)印象を社内報で述べるだけでも、その国で働いている仲間たちに迷惑を掛ける可能性があった。発言には気を付けなければならないのである。

 しかし最近のイラク関係のニュースから、ある程度イラク情勢に詳しくなって見ると、当時のあのリーダー格の男が研修会で取った行為が、私には痛いほど共感できるようになってきたのである。
 彼らは、政府機関のコンピュータを扱うエリート技術者だった。その地位を絶対に失いたくない。失えば生活が成り立たなくなる。命の保証もされないかもしれない。彼らの家族の生活も掛かっていたのである。全員が落ちこぼれなく無事研修を終える必要があった。リーダーとしては一人でも成績の悪い者を出す訳にはいかなかったのであろう。

 私が逆の立場であったなら同じような行動に出て部下を守る努力をしたに違いない。そう思うようになったのである。あれは立派な男だった。私より少し年上のようであったが、彼のその後の人生はどのようになったのであろう。平穏な人生であったはずがない。イラクのニュースに接するとき、私は時々彼のことを思い返すのである。あれは立派な男だった。立派なリーダーだった。■