素歩人徒然 表現力 ボディーランゲージの苦手な日本人
素歩人徒然
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表現力


── ボディーランゲージの苦手な日本人

 教育界では学生の学力低下が指摘されて久しい。企業においても、将来の戦力となるであろう社員の能力に関わる問題であるから見過しにはできないものがある。
 長年企業に勤め、定年後は教育に携わるようになった私めとしても一言言及したいところであるが、新米教師の高々数年の経験では“学力低下”について具体的データを添えて意見を述べるにはいささか躊躇するところがある。ただ確信を持って言えることは、最近の学生の“学ぶ意欲”と“表現力”は確実に落ちているということくらいであろうか。

 企業では(これは別に企業に限ったことではないが)深く考察する解析力・分析力、それとプレゼンテーションでの表現力・説得力が求められている。中でも分かりやすい文章を書く能力は必須のものである。討論(ディベート)の能力も必要であろう。残念ながら技術系の大学では、こういう技術を身に付けるための学習科目が欠けているように思うのである。

 私も大学時代にそういった技術を学んだ記憶がない。企業に入ってから先輩社員から少しずつ苦労して教え込まれたのである。それらを今度は私が若い社員に教える。この過程で(できれば大学で)もっと体系的に教えた方がよいのではないかと思うようになった。

 そこで教師になってから、私は迷うことなく日本語で長い文章を記述する必要があるようなレポートの提出を学生に課すことにした。たとえば「自身の倫理観について思うところを述べよ」というような大きなテーマで自由に書かせるのである。十分に思考をめぐらせて考察しそれを文章で表現するには、生半可な日本語の表現能力では直ぐに馬脚を現してしまう。提出された素朴な字(*1)で書かれた拙い文章のレポートをじっくりと読む。これを毎年続けているのである。中にはこれはと思うような素晴らしいレポートもあるが、その数は年々少なくなってきている。普段、漫画ばかり読み、携帯電話で貧しい語彙のうすっぺらな若者言葉を操っている彼らにとっては、確かに荷が重い課題なのかもしれない。

【注】(*1)“へたな字”とも言う。
手書きを原則としワープロでの記述は許していない。手書きの字を見ればその人の性格がある程度分かると思うからである。

 この過程で私は何時も思うのだが、元来日本語というのは素晴らしい表現力を持った言語のはずなのに、それが全く生かされていない。そこに何時も不満を感じてしまうのである。学生には日本語の素晴らしさが分かっていない。素晴らしい表現力を持った言語を自ら使っているのだという自覚がない。
 誰でも自国の言語が一番美しくかつ素晴らしい表現能力を持っていると思うものなのだろう。しかしそれにしても日本語は特別な存在であるように思う。私は言語を専門に研究している訳ではないからその道の有識者からは一笑にふされるかもしれないが、自分が普段感じているままを記してみたいと思う。

 断るまでもなく私は外国語に堪能ではない。海外に出て英語を話すと本当に疲れる。まず発音するときに口の周辺の筋肉を意識的に大きく動かして使わねばならない(あれは疲れる)。発音だけではない。相手に自分の意思を正確に伝えたければ、身振り手振りなどのジェスチャーを交える必要もある。しかも話すときの抑揚・イントネーション、声の調子などにも気を配り、ありとあらゆる手段を総動員して自分の意思を表現しなければならない。まずもって相手に何かを伝えたいと思ったら、その気持ちが“気迫”となって前面に出るように心がける必要がある。ほんと疲れます。

 海外からの帰国者によく見られるアメリカ的な大仰なしぐさ、いやですねぇ。しかしあれは長い海外生活では身に付けなければならない必須のものだったのであろう。日本人は元来そういうのが苦手なのである。
 テレビで話すアナウンサーの様子を観察してみるとよい。日本のアナウンサーは上唇から上を決して動かさずにしゃべる。日本では、そうやって冷静にしゃべるのがよしとされている。一方、海外のニュースキャスターやアナウンサーは決してそのようなしゃべり方はしない。時には眉毛をつり上げて表情豊かに感情を込めてしゃべっている。もっとも、眉毛をつり上げることによって一体何がよりよく伝えられるのか、そのへんのところは私にも説明できないのだが。

 映画等で見る中国や韓国の人達の話し方についても同様なことが言える。彼らは日本人には奇異に映るくらい、普段からハイテンションなしゃべり方をしているように思う。ちょっとした会話でも何か喧嘩でもしているかのように感情をあらわにし、口角泡を飛ばすといったしゃべり方をする。あれでは疲れるだろうなぁと私は思う。もちろん劇中の場面だから、あれが必ずしも普段のしゃべり方ではないのかもしれないが。

 誤解を恐れずに書けば、彼らの使う言葉はあのような動作、つまりボディーランゲージをともなわないと正確に自分の想いを伝えられない程度の表現力(の深さ)しかもっていないのではないか、と私は思うのである(反論されるだろうなぁ〜)。

 最近、日本人に新型肺炎SARSが広がらなかった理由として、日本人の発音の仕方によるところが大きいという説があることを知った。日本人は口角泡を飛ばすような話し方をしないから感染しにくいというのである(*2)。確かに日本語はパ行、バ行、マ行以外なら唇をほとんど動かさないで発音することができる。貴方(女)も腹話術師になったつもりで試してみるがよい。
 しかしこの説を、私の主張のよりどころにする積もりはない。今年の冬、日本でSARSが大流行しないという保証はないからである。

【注】(*2)日本語の発音が原因なら日本人が感染源になりにくいということになるのではないか。しかし日本人は海外で買い物をするときでも日本語の話せる人としか接触しない。しかも日本人は日本人同士で群れるから感染しにくかったということらしい。本当であろうか。

 つまりどんな言語も、話し言葉でものを伝えるには言葉だけでなく何らかのボディーランゲージが合せて必要であるということが言えるのではないか。このボディーランゲージが日本人は苦手なのである。それはもともと日本語がそういう特性を持っていたからなのだ。日本人は昔から文語体の表現方法を持っていたように、ボディーランゲージなしでも物事を正確に伝えられる言語を普段から使っていた。日本語はボディーランゲージなしでも十分にものを伝えられる言語だった(過去形!)のである。

 歴史書などを読んでいると、昔の人が書いた手紙などで文語体の文章に出会うことがある。私はあれを読むのが大好きなのである。そして美しい心を打つような名文に出会うと、自分もこういう文章が書けたらよいのにと思う(一体、誰に文語体で手紙を出そうというのだろうか)。文語体というのは、文章だけでこちらの気持ちを正確に相手に伝えるためのものなのである。どんな激しい怒りでも、どんな深い感謝の気持ちでも、どんな深い感慨でも、何事でも余すところなく伝えられる言語なのである。ところが残念なことに我々の世代は文語体で文章をつづることができない。しかし(多分)読むことはできるという不思議な世代なのである(真に遺憾かつ残念至極に御座候)。

 文章を書くときに文語体に代わって口語体が広く使われるようになって以来、文語体は次第に使われなくなってしまった。本来、ボディーランゲージなしで伝えることを前提にした文語が使われなくなり、ボディーランゲージとともに伝えることを前提(?)にした口語が文章作成で使われるようになった。つまりボディーランゲージを苦手とする日本人が口語体を文章作成に使うようになったのである。もともとボディーランゲージが少ない国民だから当座はそれでもよかったのであろう。

 しかし日本人は次第に文章による表現力を失ってきた。メール文化の浸透とともに対面での会話が少なくなり(むしろ回避するようになった?)何でもメールの文面で済ませてしまうようになってきた。メールとは、ボディーランゲージなしで自分の意思を伝えなければならない世界である。表現力の乏しい日本人が、ますます自己表現できなくなってきたとしても不思議ではない。その結果、反対意見に出会うと説得することを避け(説得できない!)、「バカ」とか「死ね」とか「殺してやる」とかの捨て台詞で相手を全否定するしか方法がなくなってしまったのである。

 それではどうしたらよいか。どうやって自分の考えを表現したらよいのだろうか。もはや、ありふれた言葉をうまく使って表現する以外に方法は残されていないのが現状である。この、ありふれた言葉で“うまく表現する”方法を身に付けるには修練が必要であろう。その方法を一人で身に付けるのは難しく、プロの物書きの文章を参考にする以外に方法はないのではなかろうか。漫画本をいくら読んでも、携帯で友人と何時間しゃべっていても決して身に付けることはできない。

 最近の若者は読書をしなくなり、古くからの味わい深い言葉や表現に出会う機会も少なくなった。その結果、語彙が極端に少なくなってきた。話し言葉は次第に単純化され、何でも四文字言葉に置き換えてしまう風潮とあいまって次第にその表現力を失ってきている。何でも「カッワイ〜」の一言ですましてしまうご時世である。

 最近の若者がまともな文章を書けない原因は、頭に言葉の蓄えがないからであると言われている。なぜ蓄えがないかというと、古典やプロの物書きの書いた良い本を読まないからである。良い本を読まないから良い言葉の蓄えが増えない、良い表現の蓄えが増えない。したがって頭が栄養不足となって良い言葉や良い表現が出てこないということになる。だから私は、最近は学生に読書を勧めることにしているのである。
 ところで自分はどうか。確かに本は読んでいるが良い本はあまり読んでいないなぁ。こりゃまずいなぁ〜。■