素歩人徒然 整理整頓 あるべきところに物がある
素歩人徒然
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整理整頓


── あるべきところに物がある

 大学の前期の授業が終了した。成績の記入と大学への関係書類の提出も無事に終ったので、ここらで自分の机の周辺を少し整理することにしよう。

 昔からの習慣で、私めは何か一つ大きな山場を越えると自分の部屋の掃除にとりかかることにしている。「身の回りの整理整頓ができないようではプログラマとして失格である」というのが私の持論であるが、なに、それ程何時も自分の身の回りをきれいにしている訳ではない。

 毎週の授業が続いている間は、学生から提出されたものは確実に保存するよう努めている。成績評価が完了するまでは出席票のような紙きれ一枚と言えども不用意に捨てる訳にはいかない。そのため我が書斎の机の周辺には書類や資料の山ができていて、どう見ても整理整頓されている環境とは言えない。

 一般に物を整理するには、
 (1)広い部屋がある
 (2)広い机や十分な格納場所がある
 (3)本人に整理したいという意志がある
という3つの条件がどうしても必要であろうと思う。

 その最初の条件である「広い書斎を持ちたい」という夢は、私の場合なかなか適えられないでいる。自分のホームページにKnuhsの書斎などという変な名前を付けた理由は今ではもう忘れてしまったが、多分広い場所がほしいという潜在意識があったためではなかろうか。

 二人の娘が結婚して家を出れば二つの部屋が空く、そうしたら知り合いの大工(でえく)に依頼して特別あつらえの大きな机と本棚を作ってもらおう。机にはコンピュータ2台と各種の周辺機器を置いて更に十分な空間が確保できる程の大きさにしたい。私はそのような将来の広い書斎での生活を思い描いていたのである。

 数年前、長女が結婚したが案に相違して部屋は空かなかった。今年の初めに次女が結婚した。結婚式のとき両親への感謝のしるしとして掛け時計を贈ってもらったのだが、その時計を新しい我が書斎となるべき部屋に取り付けておいたところ、新婚旅行から帰ってきた娘が叫んだ。「私の部屋に時計が掛かってる!」
かくして、またもや部屋は空かなかったのである。嗚呼。

 条件の1と2が適わなければ、あとは不要物を廃棄して狭い範囲で整理整頓の努力をするしかない。それには、長年会社勤めで慣れ親しんだ職場環境での経験を参考にするのが一番である。
 会社勤めをしていた頃、私は工場勤務だったのだが、ときどき本社に行くと息が詰まるような気分になったものである。本社に勤める人たちの机の上は何時もきれいに整理整頓されていたからである。仕事中の机の上は乱雑で構わないが、仕事が終ると彼らは必ず机の上には何も置かれていない状態にして帰宅するのが常であった。本社ではそれが習慣になっていたからである。したがって本社の職場では、机の上の状態を見ればその人がもう帰宅してしまったのか、出社しているが一時的に席を外しているだけなのか、外出していても帰社する予定なのか等が一目瞭然で分かるようになっていた。
 しかしよくよく見ていると、帰宅前に整理しきれなかった書類等は椅子の上に積み重ねて隠し、一見机上が整理されたかのように取り繕っている人が案外に多かったようである。つまり、あれは第三者に見せるための整理整頓だったのである。

 一方、工場勤務の技術者であった私めの机の上は、いつも本や書類が積み重ねられていた。しかし乱雑に積み重ねられてはいたが、すべて仕事に必要なものばかりであり、私の頭の中では何がどこにあるかが完璧に整理されていた。その本や書類をバリヤーにして、残された空間を外からは容易には覗かれない自分の城にしてその中で仕事をしていたように思う。実は、このような狭い机上のスペースを有効に活用したいという発想から、あのノートパソコン(*1)なるものが誕生したのであるが。

【注】(*1)世界初のノートパソコンの開発者(正確にはその前身のラップトップコンピュータの開発者(もっと正確に言えば、私めはその開発チームの一員に過ぎないのだが))として、一言言わせてもらえば、この狭い国土‥‥ではなかった狭い机上のスペースを有効に活用するにはどうしたらよいか、という発想がノートパソコンを生んだのである。したがって、ノートパソコンはまさに日本的な環境からしか生まれ得なかった製品であると言えよう。プロジェクトXのプロデューサー氏が、将来そういう視点から番組を作ろうとするならば、必ずや私めにも声がかかるのではないかと密かに期待しているところである(いや、それはあり得ない)。

 ノートパソコンの登場で、職場の机の上は格段に整理されたと思う。帰宅するときは机上にパソコン以外は何も置かれていない(*2)職場も増えたことであろう。

【注】(*2)実はパソコン開発の当初、パソコンを机上で片付けるという発想もあった。パソコンが用済みになったら立てかけて机上スペースを広げられる様にするのである。しかし常時パソコンを使用し、パソコン上の“デスクトップ”で仕事をするのが普通になってくると、もはやその必要もなくなってきたというところであろうか。

 パソコンが真に文房具の一つとして使われるようになれば、ペーパーレスの時代が来ると言われていた。しかし紙類の使用は一向に減らず、むしろ増え続けた。その内に「ペーパーレス」は無理としても「レスペーパー」は実現できるだろうという主張に変わってきた。しかしこれも実現せず、現実は益々紙の需要は増し、机の周辺は紙だらけ書類だらけ(*3)となってしまった。もはや「ペーパーレス」などと言う言葉を本気で口にする者は誰もいない。

【注】(*3)世界初のノートパソコンの開発者(正確には開発チームの一員‥‥分かったよ!)として一言自己批判をさせてもらえば、パソコンの普及により我々のまわりには、毎日毎日紙が増え続け、書類が増え続けるという状況になってしまった。パソコンは、机周辺の汚染に重大な影響を及ぼす環境汚染の元凶となってしまったのである。開発者の一人として大いに責任を感じているのである(ただ、私は開発チームの一員に過ぎなかったという点だけはここに明確にしておきたい)。

 パソコンの登場以来、もはや机の上を誰も完全に片付けることはできなくなってしまった。いくら整理整頓しようとも紙はどんどん増え続ける。どうやら夜の間に紙は増殖しているのではないか、と疑いたくなる程である。

 机の上に何も置かれていない、塵一つない整理整頓された環境があるとすれば、それは私にはとてつもなく不自然に映るのである。そんな第三者に見せるための整理整頓ではまったく意味がない。私にとって整然とした机とは、すべてのものがあるべき場所に納まっている環境でなければならない。人の目には乱雑に見えるかもしれないが、何がどこにあるか、その内容は何か、すべてそれを置いた本人の頭の中に“整理”されている環境が本当の意味で“整理整頓”されていると言えるのではなかろうか。

 コンピュータの中に保存されているファイル類についても同じことが言えるであろう。一仕事終わったら“すべてのものがあるべき場所に納まっている”整理整頓された状態にすべきであろう。■