素歩人徒然 砧 古い道具を残す
素歩人徒然
(60)



── 古い道具を残す

 新聞に目を通していると、不意に“砧”という文字が眼に飛び込んできた。「砧打ちの石」というタイトルの記事で、韓国の博物館で見た砧打ちの石についてふれたものであった。砧(きぬた)というのは布をたたくための木槌のことであるが、私は砧という字には特別の思いがあるので眼が自然に反応したのであろう。

 子供の頃、私は東京の世田谷区に住んでいた。町の名前は砧町と言い、通学していた小学校は砧小学校であった。“きぬた”を逆さに読むと“たぬき”になるので、他校の悪ガキどもと喧嘩をすると直ぐさま「たぬき、たぬき」とはやし立てられたものだ。他校で行われた運動競技会の応援のために出かけたときのこと、校舎の二階にある教室の窓から沢山の学童どもが顔を出し「たぬき小学校、たぬき、たぬき、ヤーイ」と大声でからかわれたのを今でも鮮明に記憶している。自分の学校が、たぬきが出るくらいの田舎にある小学校だという点では何ら異存がなかったので、悔しいけれど言い返すことができなかった。今でこそ世田谷と言えば立派な住宅街が並ぶ地域であるが、当時は田んぼや林の多いまさに田舎そのものだったのである。その他校のある地域には小田急線が走り、少し離れて京王線の駅があったりして我が母校に較べたら格段に都会的な場所にある小学校だったのである。

 今でも時々砧小学校の近くを車で通ることはあるが立ち寄ったことはない。当時とは余りにも変容してしまったであろう我が母校を直接見るのが何となく怖いのである。その上、変な大人が小学校を覗き込んでいたりしたら、たちまち怪しまれてしまうようなご時世である。Google Earth(http://earth.google.com/)を用いて空から俯瞰し秘かに母校の様子を観察しているという、何とも情けない卒業生なのである。
 今は使われていないそうだが道路に面してトンネルがあり、そこをくぐってから階段を登り校舎と校庭へ入るようになっていた。そのトンネル門の入口の上に校章(写真参照)があり、それが校名のもととなった“砧”を組み合わせたデザインになっていた。

 したがって、私は子供の頃から砧とはどういうものであるかをよく知っていた(つもりなのだ)。確か、布を叩いて洗うときに使う道具であると教えられていたように思う。学校の近くに多摩川が流れているので、自然に私の頭の中には川辺で女性が砧を用いて洗濯をしている図が思い描かれていた。勝手に空想した訳ではなくそのような絵を実際に見た記憶もある。

 しかしこの新聞記事によれば、叩き洗いに使われたと誤解されることが多いが、実は洗濯した布を打ってしわを伸ばしたりするのに用いたものであるらしい。昔は木綿や麻などの布は洗うと繊維が堅くなってしまうので、それをほぐして軟らかくする必要があった。昼間洗濯し、夜、乾いた布を木や石の台に載せて叩いて(これを砧打ちという)仕上げるのは女性の夜なべ仕事だったのであろう。今ならさしづめアイロンかけをしていたようなもので、日本には昔からあった風俗習慣なのである。それゆえ砧はどこの家にもある生活必需品であったと言えるであろう。能にも砧(世阿弥作)という作品がある。夫の留守宅を守る妻の悲しみが描かれており、古来人々に好まれてきた能であるという。砧は源氏物語の中にも出てくるというからかなり古くからあったものらしいが、韓国にもあるとは知らなかった。もしかすると大陸からの渡来人が持ってきたものかもしれない。

 今では砧はあまり見かけなくなったが、博物館でも展示しているところは少ないと聞く。実は数年前、私は本物の砧を手に入れたのであるが(写真参照)、ちょっとした置物になるしブックエンドにもなる。ときには肩こりを治すための肩叩きにも使えるという重宝なものである。これをしげしげと見てみると、決して石の上で叩いて用いたとは思えない。石の上で叩けば木の部分がつぶれるか傷が付くであろう。実物にはそのような傷は見当たらないから、やはり布をそっと叩いたというのが正解であろうと私は得心したのであった。

 こういった古い道具類が、私たちの身辺から次第にその姿を消していくのは残念なことである。ひるがえって、もっと身近なもので考えてみよう。私めが開発に携わってきたコンピュータの分野で使われた道具類も、同じようにいつかは消えていく運命にある。それを見越してハードウェアを残す試みは行われているが、ソフトウェアの方はどうであろうか。なるほど商品として市販されたパッケージ類は残されるであろう(記憶メディアの問題はあるが【素歩人徒然(28)】参照)。しかし商品とはならなかった開発作業でのみ使われた各種のツール類は、誰も残す努力をしていないように思う。初期のパソコンの動作環境がシミュレーター付きで保存されている(*1)のだから、開発ツールの方も残せないはずはないと思うのであるが。■

【注】(*1)たとえば、私めが昔愛用した Sorcerer Computer の場合、
   http://www.geocities.com/emucompboy/
   http://www.lisp.com.au/~michael/exidy/