素歩人徒然 オシムの言葉 教育の仕方について
素歩人徒然
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オシムの言葉


── 教育の仕方について

 サッカー日本代表監督に就任したオシム氏の言葉が評判になっている。
 ときどきに発するメッセージになかなかの含蓄があり、聞く者になるほどと思わせるものがあるからである。彼の子供時代からの友人が言うには「彼は子供の頃からああいうことを言っていた」そうであるから“オシムの言葉”なるものはどれも筋金入りなのであろう。
 日本選手に「自分で考えよ」と指導しているのを聞いて私は我が青春時代の一場面をふと思い出したのである。

 私は大学時代、数学の教師になりたくて教職課程を取ることにした。その中に教育実習という必修科目があり実際の教育現場で教える経験をする。私が実習校として割り振られたのは、とある大学付属の高等学校で、確か2年か3年の男子ばかりのクラスであったと記憶している。実習中はほとんどの時間をベテラン教師による数学の授業を見学することで費やされるが、一度だけ授業を担当させられたことがあった。
 無難に自分の講義を済ませてから、最後に私が「何か質問はありますか?」と問うと、待ち構えていたかのようにある生徒が立ち上がった。そして「この問題が分からないので教えてください」と言う。

 「教えてください」などと下手(したて)に出ているが、明らかに新米の見習い教師を立ち往生させ困らせてやろうという魂胆が見え見えであった。問題を見てみると、なに、たいして難しい問題ではない。何しろこちらは数学を専門に勉強しているのだから、高校生相手にこれしきの問題で立ち往生するほどやわではない。
 このような場合、問題を解くだけでなくそれを分かり易く説明できなければならない。解くことと明快に説明することとはそれぞれ別の難しさがあるのだ。しかし私はすぐさま黒板の上で解いて見せ、しかもこの種の問題の解き方はこうやるのだと鮮やかにそして“明快”に説明してやったのである。どうだ、まいったか、という訳である。彼らは返り討ちにあってしまったのだ。予想外の成り行きに生徒全員は無念そうに沈黙するばかりであった。そして授業はそのまま終了となったのである。
 このときの経験は、私にとって青春時代の“痛快な思い出”の一つとして長く記憶されることとなった。しかし時が経つにつれてこの思い出も少しずつ変質していくことになる。

 私がこのように“明快”さにこだわったのにはそれなりの理由があった。
 そもそも私が教師になりたいと思ったのは高等学校時代の数学の教師の影響がある。担任の数学教師は、それはそれは見事な授業をする先生であった。私もあのような授業のできる先生になりたいと心底思ったのである。
 しかし教師の中にはそれ程でもない先生もおられた。数学の問題というのはどんな方法でも解けさえすればよいというものではなく、いかにエレガントに解くかが重要なのである。ところがどんな問題でも公式どおりの方法で泥臭く解くことしかできない教師もいる。そういう数学的なひらめきを全く感じさせないような教師の授業は全く面白くない。問題を作った人は明らかにもっとエレガントな解を期待しているのに泥臭い方法でしか解くことができないのだ。

 私は我慢できずに質問しようとする。しかしそういう先生に限って質問を受け付けない。自分が予定した流れから外れることを極端に恐れているのである。仕方なく授業が終ってから教員室に向かって足早に歩く教師をつかまえて質問しようと試みる。しかし先生は私の質問を聞きはするが決して歩く速さを変えずに逃げるように教員室に向かって歩き続けるのであった。仕方なく私は質問するのを断念する。
 明らかに質問されることを恐れているのだ。これでは先生の数学の実力に信頼感を持てなくなってしまう。もちろんそういう先生でも教師としては他に良い面を沢山持っており名物教師として記憶に残る先生となるのであるが‥‥。
 こういう経験をしていたので私は、どんな質問に対しても質問されたことには100%“明快に”答えることを重視するようになった。それが質問者の信頼を獲得することにもなると考えたのである。

 しかし私は結局は教師にならなかった。大学時代にコンピュータ(当時は電子計算機と称した)と出合い、教師の道を断念してエンジニアになる道を選んだのである。ここで一言弁解しておいた方がよいと思うのだが、このときの決断について、教師になりたいという私の想いがいい加減なものであったと解釈するよりも、それほどコンピュータとの出会いが衝撃的でかつ魅力的なものに思えたという方が真っ当な見方であろうと思う。そして私は企業に入ってコンピュータのソフトウェア開発業務を担当する技術者になったのである。

 企業では普通、新人は先輩を見習うことで仕事を覚える。昔から職人は親方の技を盗んで仕事を覚えるものと相場が決まっていた。親方は何でも教えてくれる訳ではない。いや何も教えてくれないと言っても過言ではない。
 あの名人を目標にして頑張れば何時かは同じような匠(たくみ)になれるぞと突き放すのが基本的な教育法なのであった(それを教育と呼べるのならば)。したがって名人になるには時間も掛かる。あとは本人の努力次第という訳である。

 当時の私の職場にも、もちろん見習うべき先輩連中が沢山いた。彼らからいろいろと技を盗み技術を磨いたものである。しかしコンピュータという新しい分野(当時は!)の仕事だったので、特にソフトウェア開発の分野では見習うべき名人はまだほとんどいなかったと言ってよい。当初はソフトウェア技術者にどのような能力が求められているのか、実は誰にも分かっていなかったのである。後に次第に明らかになっていくのだが、ソフトウェアの開発には実に多種多様な分野の知識と能力が求められるのである。それに応えるためには理系の人だけでなく文系の人も含めていろいろな能力が求められる分野だったのであった。

 何人かの部下をまとめてチームを作り、チームで仕事をするようになると部下を育てることも仕事のうちということになる。うまく育てて、即戦力となってチームに貢献できる有能な人材にしないと私自身が困るからである。教育者になることを断念した筈なのに、結局は教育というテーマにどっぷりと浸かっていることに気が付いたのである。

 そこで私はよくよく考えてみた。部下から質問されたことに何でも100%“明快に”答えていてよいものだろうか。それでは部下の能力は決して伸びないのではないか。自分で考えて自力で解決していく習慣を身に付けさせなければならないのである。優秀な人材はある程度教育すれば後は放っておいても伸びる。しかし普通の人材はうまく指導する必要がある。しかも隠れた素質・資質を発見したらそれを意識的に伸ばしてやると、もしかすると(もしかすると、ですよ!)“多種多様な分野の知識と能力が求められる”ソフトウェア開発の仕事に活用できるかもしれない。実は、私自身もそうやって育てられてきたのである。

 ここに至り、私は我が青春時代の“痛快な思い出”なるものが実は教育にはなっていなかったことに初めて気が付いたのである。あれは教育ではなく単なる見栄を張る行為に過ぎなかったのではないか。あのとき私はどう対処すべきだったのだろうか。
 本当は、質問に対してどこが難しいのかを尋ね、乗り越えがたい壁はどこにあるのかを明確にしその壁を乗り越える手助けをしてやればそれで十分だったのである。最後まで明快に答を教えてあげる必要などなかったのだ。いや教えてはいけなかったのである。
 そういえば大学の恩師は100%明快に答えるような対応は決してしなかったと私はこのとき初めて気が付いたのである。あの方法をとるべきだったのである。

 教育の仕方というものを(誤解を恐れず)あえてサッカーの監督の流儀にたとえて分類してみよう。
 常に問題の正解を教えてそれを繰返し覚えこませる。これはトルシエ監督流のやり方と言えるであろう。ちょっとひねった応用問題が出るともう手も足も出なくなる。
 一方、昔の職人のように名人を真似させる教育方法はジーコ監督流の放任主義と同じである。お前は素質があるのだからあの名人を真似て頑張ればいつかは同じようになれるぞと励ます位のことしかやらない。しかしいくら頑張ってもロナウドやロナウジーニョのようにはなれないのだ。そしてロナウジーニョになれなかったのは、結局はお前の努力が足りなかったからだという結論にされてしまう。
 これからの教育は、生徒に自分で考えさせるオシム流でなければならない。名人を真似るのではなく自分の個性を生かせるような人材に育てることを重視すべきであろう。

 現在の私は、企業での技術者としての生活を卒業し教師になっている。昔夢見た数学教師ではないが、コンピュータ関連の授業を担当する身である。もう昔の轍は踏まないようにしなければならない。
 プログラミングの授業で私の出す課題に対し学生達は様々なプログラムを提出してくる。それを私は一つ一つ丁寧に添削し返却するのだが、彼らは必ず“先生の正解プログラム”を知りたがる。私は「自分で考えよ」と言って決して“正解”なるものを示さない。正解を示さない理由はもちろん説明しているのだが、なかなか納得してもらえない。プログラムに「これが正解」などというものは存在しないのである。これからは「オシム流だ!」と言えば私の意図が通じるようになるであろうか。■