素歩人徒然 インターネット検索の功罪 好都合な真実から生まれる不都合な真実
素歩人徒然
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インターネット検索の功罪


── 好都合な真実から生まれる不都合な真実

 情報倫理の授業の中で、私は学生に多様性ということを教えなければならない。つまり、多様な意見の存在を認めようということである。意見を異にするからといって阻害したりせず、意見が違うことを認めた上で共存することの重要性を教えるのである。
 その際に、航空幕僚長の地位にいた人の書いた論文に言及したことがあった。日本が、かつて侵略国家であったか否かの論文で物議をかもし、辞任に追い込まれた事件の直後だったからである。そして、あれは公の地位にいる人の発言としては好ましくないということで問題になったのであって、私人なら何の問題も起こらない。人は誰でも自由に意見を表明できるという話をしたのである(もちろん、自分の発言には責任を持たなければならないが)。更に、これは言わなくても良かったのだが、「他の歴史学者の著作の中から自分に都合の良い主張だけを集めてきて、自身の主張を展開しているようだ」と、どちらかと言えば批判的に、新聞記事等から得た知識を用いて紹介したのである。もちろん、その論文をどう解釈するかは学生の皆さん個人の問題ですが、と抜かりなく言い添えておいた。

 授業が終わってから一人の学生がやってきて「先生はあの論文を読みましたか?」と質問してきた。私が読んでいないと答えると、「私はすべて読みました。そして全部、ちゃんと理解しました。先生は読んでいないのに批判するべきではありません!」と言うのであった。「私は読んでいないけど、自分の意見を述べるのは構わないと思いますよ。意見を述べるな、と発言を封ずるのは間違っています」と私は答えたのである。

 たった今、多様性について教えたばかりなのに、自分の気に入らない意見はすべて封殺しようとする姿勢が見え見えであった。その論文の内容にいたく共感していたのであろう。最近、こういう若者が増えてきているのはよく指摘されるところである。これは若者に限ったことではなく、インターネットの掲示板上などで論争が起こると、必ず相手を誹謗中傷して遂には暴言を吐くといった状況になることが多い。
 私がその論に関して何か論文を発表するのなら、それは当然読む必要があろう。しかし単なる意見を言うだけなら、新聞の解説記事から得た知識程度で十分であろう。私は読む必要を感じていなかっただけのことである。もっとも、先生というものは、学生に対し常に中立の立場でものを言うことが求められると錯覚している人が多いから、微妙な問題で自分の意見を表明する先生が珍しかったのかもしれない。

 その学生との議論はそこで終わったのだが、私は、本当はその学生にこう言ってあげたかった。もし、貴方がもっと日本の歴史を勉強していれば、簡単にはその主張に同意できなかったでしょう、と。「私はすべて読みました。そして全部、ちゃんと理解しました」という一言が気になったのである。論者の主張に不都合な真実はすべて無視し、自分に好都合な真実だけを集めてきて構築された主張に対しては、日本の歴史をよく勉強していない人が疑問を差し挟むのは難しいであろう。ましてや反論などできるはずもない。

 ところで、我々はインターネット上の検索システムを用いて様々なことを調べられる世界にいる。しかし、インターネット上で得られた情報が信頼できるものであるかどうかは別問題である(書物は、編集者による査読を経ているからある程度信頼がおけるが)。その結果、学生が提出するレポートや論文の多くが、検索結果の切り貼り(“コピペ”と言うらしい。いやな略語だ)で作られていて問題になっているのはよく知られた事実である。私自身も、ちょっと疑問に思ったことは手軽に調べられるので、インターネット検索の結果から便利に知識を得ている一人である。

 しかしインターネットのない時代には、我々は主に書物を読むことによって多くの知識を得ていた。一冊の書物を苦労して読み、自分なりに理解し、その過程で少しずつ自分の頭の中に知識の体系を構築していったものである。つまり本を読むという作業は、その本全体の文脈をたどりながら、自分の中に新たな知識の体系を移し替えていく作業と言えるのではないか。自分が以前から持っていた知識と織り交ぜ、必要なら修正をほどこしつつ構築していくのである。そして、そこで構築されたものからその人のが生まれてくるのであろう。

 一方、インターネットを通じて知識を得る場合は、そのような過程を通らないことが多い。検索結果から得られる短い情報からは、原文全体の文脈をたどることはできない。自分の意に沿う情報だけをつまみ食いしているようなものだからである。その情報を消化し、自分の知の体系に組み込むという過程を経ないで、そのままの形で(つまりコピペで)レポートや論文の中で使ってしまう。その記述自体を自分の知識だと錯覚しているのである。

 これが習慣になってしまうと、つまみ食いされた好都合な真実のみを用いて、結果として不都合な真実(主張)をでっち上げてしまうことになる。あるいは、そういった怪しげなものを読まされても、何の疑問も持たずにすぐ共感してしまうようになる。

 先に述べた論文を書いた人も、それを読んで「ちゃんと理解した」と信じてしまった学生も、私自身も、たいして変わらないことを日々やっているような気がしてきたのである。
 我々は、インターネット検索に過度に依存することをやめ、もっと書物を読むことによって自ら知の体系を構築するという、昔ながらの方法にもう一度立ち返るべきではなかろうか。■