素歩人徒然 怒りを抑える 怒りの感情を制御するには
素歩人徒然
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怒りを抑える


── 怒りの感情を制御するには

 自分の感情、特に喜びや、悲しみ、怒りなどの激しい感情を抑制するのは大変に難しいことである。私の場合、怒りの感情を抑えるのは特に難しいと実感している。抑制できずに随分と失敗を重ねてきている。

 何か怒りを引き起こすような事態に直面した時、普通は二つの対処法を身につけておく必要がある。まず、怒りでカッとなっても、直ぐ無分別な行動に走ったりしないようにする方法。もう一つは、後からジワジワと怒りを思い出し、思い悩むことへの対応法である。

 最初の、カッとなった時の対応は特に難しい。怒りにまかせて言わなくてもよいことを口走ったり、怒鳴ったり、殴ったりという行為に及ぶのがよくある例だ。人生経験を積んでいないと、なかなかうまく対応できなくて失敗を重ねてしまうことが多い。思わず暴力を振るってしまい、あたら大切な人生を棒に振るような事件を引き起こしてしまうことにもなる。管理者になってもこの対応が下手だと“瞬間湯沸かし器”などというあだ名をもらったりする。

 よく「堪忍袋の緒(お)が切れる」と言うが、怒りや不満を自分の心の中にある堪忍袋と呼ばれる(想像上の)袋の中に閉じ込めて、その口を緒でしっかりと結んでしまえば怒りの爆発を抑えることができるものらしい。カッとなった時、とっさにこの堪忍袋を思い浮かべるとよい。もし思い浮かべることに成功すれば、まず冷静さを取り戻せる可能性は高い。私はこの方法を学生諸君に教えているが、教えている本人がかなり短気な方なので、残念ながら自分自身ではカッとなった時に堪忍袋を思い浮かべるのに成功したことは滅多にない。堪忍袋の緒の方すら、思い出せない体たらくである。私にとっては永遠の課題なのである。

 ここで取り上げたいテーマは、もう一つのジワジワと何時までも心の中に残る怒りの気持ちをどう解決したらよいかという問題の方である。
 以前、新聞を読んでいたら、怒りへの対応が4つに分類されて紹介されていた。

 ・迎合型 ………… 相手に合わせたことを言い、怒りをため込む
 ・引きこもり型 … 相手を避けて自分の内に入る
 ・攻撃型 ………… 怒鳴る、殴るなど
 ・バランス型 …… 怒りの原因を冷静に分析してうまく自己表現する

 この分類に従えば、カッとなりやすい人は攻撃型と言えるのかもしれない。しかし同じ人が、必ずしもどれか一つに類別されるというものでもなかろう。攻撃型の後で引きこもり型に移行することも考えられる。

 カッとなる事態を何とか回避できたとしても、今度はその怒りを内にため込むことになるのが普通であろう。その際に、自分の気持ちを他人に話して同感してもらえる程度にまで、感情を抑制し平静さや落ち着きを取り戻すことが必要になる。自分の気持ちを聞いてくれて、それをよく理解してくれそうなのは、やはり肉親あるいは友人など自分の周辺に居る人たちではなかろうか。理解してもらえる可能性の高い順に並べると、
 (1)肉親
 (2)友人
 (3)知人
 (4)見知らぬ他人

のようになるのではないかと思う。
 インターネットの時代では、(4)の見知らぬ他人に理解してもらうことが可能となった。人によっては、(1)(2)よりも(4)の方が、よりよく自分を理解してくれると思う人が増えてきている。しかし、この方法には危険もともなうのである。

 自分の周辺に(1)(2)(3)に該当する人が居なければ、最初から(4)に頼ることになる。普段の生活の中で正常な人間関係を築けない人が、インターネットの世界に助けを求めるケースが増えてきている。インターネットの世界で、運よく心を癒やしてくれる見知らぬ他人に出会えればよいが、必ずしもそうはならない。出会った人が、自分の話に同感してくれないかもしれない。逆に攻撃されてしまったりもする。言葉巧みに騙されてしまうこともあろう。あるいは、誰も話を聞いてくれなくて、結果的に無視されてしまうことも起こり得る。そうなると、もはや相談できる相手は誰もいなくなってしまい、絶望感から逆に怒りや悲しみに火がつくことにもなりかねない。

 我々は、怒りや悲しみに陥って逆境にあるとき、内に引き籠って孤独の中で過ごすよりも外に出るべきであろう。インターネットの世界の見知らぬ他人から解決法を得ようとする前に、見知らぬ他人が生活している実際の世間そのものに、自ら出て行くことから始めるべきではなかろうか。

 周辺の人から同情を得て自分の心を癒やすのもよいが、それは一時的な対症療法に過ぎない。その「怒りや悲しみ」など全く関知しない「見知らぬ他人」と一緒に時間を過ごすのが、一番の解決方法なのである。そして、そんな悩みのことなど何も知らない人々と日々生活をともにする。それが、心の健康を取り戻すための一番の近道ではないかと思うのである。■