素歩人徒然 ウイルス感染 eウイルスと感染恐怖症候群
素歩人徒然
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ウイルス感染


── eウイルスと感染恐怖症候群

 3月26日、厚生労働省は新型インフルエンザの集団発生に関する観測を当面休止すると発表した。新型インフルエンザの大流行も、やっと一段落したようである。今から思うと、あの騒ぎは一体何だったのかと思うことがある。

 確か、昨年の暮れの頃は新型インフルエンザが日本に上陸し、その流行が本格化した頃であった。その結果日本では、誰もが感染を予防することで必要以上に神経質になっていたように思う。私も、ウイルスが日一日と我が身辺に迫りつつあることを実感したのを覚えている。もしウイルスが我が家に侵入してくるとすれば、それは同居する孫が幼稚園からもらってくるケースが最も可能性として高いと思っていた。

 ウイルス感染を予防するには、外出時のマスクの着用、帰宅時の手洗いと嗽(うがい)の励行が言われている。一度使ったマスクは、そのまま捨てるよう指導されていた。しかしマスクを着けてもウイルスは防げないという説もある。手洗いも、かなり綿密に洗わないと意味がないらしい。その結果手の洗い過ぎで皮膚科に来る人が増えたという話を、後になって聞いた。私も、電車の中で吊革を握るのさえ躊躇したのを思い出す。これらは 過度の反応、神経質 な行為と言えるであろう。

 電車の中で、酔っ払った中年の男が二人連れの女学生に向かって「お前らが不潔だから感染するんだ!」などと悪態をついているのを目撃したことがある。その時期、学生を中心とした若者から感染が広がっていたからである。集団生活で接触機会の多い学生が感染源となったケースが多かっただけのことなのだが(誤解、偏見)。

 一方、私の勤め先の大学では、学生がインフルエンザ病欠の証明書を私の所へ持ってくるようになった。その証明書を受け取りながら(恥ずかしいことに)私はいささかひるんでいたように思う。もちろん、そんな用紙からウイルス感染するはずがないことは十分に承知していたのだが(偏見)。
 教室の出入口には常時、速乾性消毒液の容器が置いてあるのだが、私は決してそれに手をのばすことはなかった。学生達を前にして、あまりに神経質になっている自分を見せたくなかったからである。ウイルス感染など少しも恐れていないという風な顔をしていたかったのである(神経質、見栄)。

 そうこうする内に、とうとう我が家にもウイルスが侵入してきた。それは孫ではなく父親(私にとっては義理の息子)の方からであった。
 その時点で私が考えたのは、これはまずいぞ。もし自分が感染したら授業を2〜3回は休まなければならなくなる。下手をすると私の科目が取れないため単位不足で卒業できない学生が出てくるかもしれない、という心配の方であった。受講する学生が感染するのとは違い、先生が感染したのでは受講者全員に影響する事態になってしまう。休講にしないよう無理をして、かえって感染を広めてしまうことも起こり得る。それに何よりも、先生が真っ先に感染しては、何ともみっともないという気持ちの方が強かった。病気で体調を崩す心配よりも、他人に迷惑をかけるのではないかという懸念、あるいは他人からどう思われるかという心配の方が先だったのだ。幸いにして、それ以上家族に感染が広がることはなく、事なきを得たのであるが(過度の心配、見栄)。

 その時の経験から、私はウイルス感染を防ぐのは本当に難しいと実感したのである。ウイルスという敵は目に見えないので、どこから襲ってくるか分からないからである。それに比べ、コンピュータウイルスの方なら何とか予防する手立てはある。敵はどこにいるか、プロの眼で見ればある程度分かるからである。

 一般に“ウイルス”と言えば、インフルエンザウイルスに代表される生物学的なウイルスのことであるが、“コンピュータウイルス”と呼ばれる電子的なウイルスがこの世に登場してからは、単に“ウイルス”と言っただけではどちらを指すのか曖昧になってしまった。もちろん多くの場合、前後の関係から判断してどちらを指すかは容易に判断できることが多い。しかし、たとえば文章の中に“ウイルス”という語が出てきたとき、どちらを指すのか分かるまでにはかなり文脈をたどらなければならないこともある。そこで、正確さを重視してコンピュータの電子的なウイルスの場合には「コンピュータウイルス」と書くことにしたのである。

 ところが、コンピュータウイルスの知識が世間に広まるにつれて、特に断らなくても“ウイルス”と言えばコンピュータウイルスを指すと理解されるようになってしまった。つまり、生物学的なウイルスよりも電子的なウイルスの方が、我々には身近な話題になってしまったのである。これが良いことなのかどうかは分からない。
 そこに、新型インフルエンザウイルスが登場し、世間を騒がせる事態になった。そして生物学的ウイルスの方が、再び我々にとってより身近な存在に返り咲いてきたのである。

 これからは、単に「ウイルス」と言えば、インフルエンザウイルスが流行る時期は、インフルエンザ等の生物学的ウイルスを指し、コンピュータウイルスが猛威を振っている時期は電子的ウイルスの方を指す、と巧みに区別しなければならないことになった。これは、かなりやっかいなことである。
 そこで、後発のコンピュータウイルスの方が一歩譲って、これからはコンピュータウイルスは「eウイルス」と書くことにしてはどうかと思うのである。「eブック」、「eラーニング」、「eメール」、「eコマース」等の前例があるではないか。

 しかし生物学的ウイルスの複雑・精緻な構造に比較して、コンピュータウイルスの構造はいかにも粗雑である。あれは“ウイルス”などと呼べる代物ではなく、精々が“雑菌”程度のものではないかと思う。世のクラッカー達は、あんな雑菌程度のもの(「e雑菌」と呼ぶべきか?)を喜々として作り、自慢げにまき散らしたりしている。まさに笑止千万!と言うべきであろう。

 ソフトウェア開発の仕事をしていた頃のことだが、コンピュータウイルス(面倒だから、以後“eウイルス”と書くことにしよう)に感染した場合には、その事実をIPA(情報処理振興事業協会)に報告することになっていた(*)。eウイルスがまだ今ほど多くなかった頃、その集計結果を一度見たことがあった。それによると、2000年から 2001年頃にかけて急速に件数が増加していた(右図参照)。ところがその件数の多くは「コンピュータに感染する前に検出された」という分類になっていて、「コンピュータに感染した」と報告された件数はそれ程増えてはいなかった。それを見て私は不思議で仕方がなかった。そんなはずはない。これは私の推測だが、恐らくコンピュータがウイルスに感染したという不名誉を隠すため、かなりの件数が「感染前に検出された」という分類で報告されていたのではなかろうか。

【注】(*)現在はIPA/ISEC(情報処理推進機構 セキュリティセンター)がその業務を行っている。

 プロのソフトウェア開発者にとって、eウイルスに感染するというのは大変に不名誉なことである。普通彼らは、感染しないために何をしたらよいかという教育を受けている。その教えにしたがって、感染予防策を日々講じていなければいけないのだが、それを実行していない いい加減な開発者もいる。これはある種のしつけ、マナーのようなもので、それが実行できないようでは“プロの技術者”とは言えない。いい加減な対応によって開発されたソフトウェアが、ウイルス付きで出荷されてしまったという事例もあるくらいである。そうなると会社の信用にかかわることにもなる。

 ソフトウェア開発の仕事から離れて以後も、私はこのしつけ・マナーを忠実に守ってきたので、幸いにしてeウイルスに感染したことはない(こんなことは大声で自慢することではないが)。プロの眼で見ればある程度分かるから、eウイルスなら予防する手立てはあると思っている。

 ウイルスが流行りだした初期の頃は、ファイルを渡すためのディスクとか磁気テープのような記憶媒体を通じてウイルス感染が引き起こされていた。インターネットメールが盛んになると、メールの添付ファイルにウイルスが潜んでいて、そこから感染がひろがるようになった。添付ファイルとして送られたアプリケーションのデータの中で使われたマクロから感染する例もある。最近ではインターネット閲覧によりアクセスしたサイトのWebページ上に仕込まれたウイルスから感染する例が増えてきている。我々は日々、ウイルス関係の情報に対し常にアンテナの方向を向け、感度を高くしていなければならない。日々新しい感染ルートが生まれてきているからである。

 したがって、ウイルス感染を防ぐには、ネチケットと呼ばれる古臭いマナー(まったく更新されていない)のみの習得では、もはや対応できないような気がするのである。特に、ウェッブ閲覧が切っ掛けでウイルス感染するケースが多いので、私はインターネットにアクセスする時は、日頃から安全性が確保されている特定のサイトにアクセスするマシンと、未知のサイトにアクセスするマシンとを完全に区別して用いることにしている。大切なマシンを常にクリーンな状態にしておくためである。特に海外のサイトにアクセスするようなときは、それ専用のマシンを使い、直後に防護用ソフトで検査し、クッキーなどが設定されていれば直ちに除去するようにしている。

 そのような用心をしていれば、まずeウイルスに簡単には感染しないで済むと思っている。その点、インフルエンザウイルスの方は、今のところまったく手の施しようがない程、極めて厄介な存在であるように思えるのである。

 しかし、今回のインフルエンザ感染の騒ぎを通じて(これは、本物のウイルスの話であるが)実際に感染した人の心理を考える機会を持つことができた。同時に、感染していない人の心理も(!)考えさせられたような気がする。

 日本人の何パーセントが新型ウイルスに感染したのかは知らないが、感染しなかった人も、やはり同じように“感染していた”のではないかと思う。彼らは(私も含めてだが)間違いなく“感染恐怖症候群”に罹っていたのではないか。
 感染恐怖症候群は特に伝染力が強く、その典型的な症状は上記の私の症例、つまり
 ・極端に神経質になる
 ・自分が感染したらどうしようかと思い悩む

の他に、次のような症状をていすることが多い。
 ・感染者を(特に若者を)非難、差別する
 ・手を洗いすぎて皮膚科のお世話になる
 ・外では物に触りたがらない
 ・マスクを買い占める
 ・初対面の人の前でも決してマスクをとらない
 ・………

 これからは、インフルエンザの流行する時期になると必ず“感染恐怖症候群”の患者が多発することであろう。感染恐怖症候群に罹りたくなければ、早めにインフルエンザに罹ってしまって自然の“免疫力”を得るのが一番の解決法であろうが、実は“免疫力”だけでは不十分で、同時に“感染者の心理”をも学び取ることが必要なのではないかと思うのである。■