素歩人徒然 日本語力 まっとうな日本語を身に付ける
素歩人徒然
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日本語力


── まっとうな日本語を身に付ける

 テレビを見ていたら速読法の紹介をやっていた。この技術を身に付けると文章を驚くほど速く読めるようになるらしい。大量の本を短時間で読了できるのなら、試験勉強の時など便利だろうから私もやってみたいと思わないこともない。しかしその技術の核心が、どうやら「文章を読まない」というところにあるらしいから、そうであるとするなら、やはり二の足を踏んでしまうことになる。

 私は、どちらかというと遅読の方である。ゆっくりと個々の文章を味わって読むような読み方をしている。こういう読み方を昧読(まいどく)と言うのだろうか。心に響くような素晴らしい文章に出合うと、その部分を繰り返し読んだりメモしたりして記憶に焼きつけようとする。後で思い返すと、どの本のどの辺りに書いてあったか(1*)まで鮮明に思い出せることもある。だから私は、速読法を用いて、文章を読まずにただ内容だけを短時間に把握できたとしても、少しも有難いとは思わないのである。もちろん、短時間に大量の文書を読みこなす必要のある仕事に携わる人には有用な技術なのかもしれないが、特別に速読を必要としない人があえて速読する意味はどこにあるのだろうかと不思議に思うのである。しかし人にはそれぞれ好みがあるから、他人の読書法についてとやかく言う積りはない。

【脱線】(1*)電子書籍は頁単位の表示で
 最近、電子書籍が話題となっている(残念ながら、私はまだ利用したことがない)。インターネット上で書籍を購読するのは既に可能となっているが、電子書籍は表示方法がより一層紙の書籍に近いという。パソコンの画面でスクロールしながら読むのでは“どの本のどの辺りに書いてあったか”を記憶することはできないから、読んだ内容が頭に残るかどうか甚だ心もとない。だから、電子書籍では、スクロールを必要としない頁単位の表示になってくれると良いと思う。更に欲を言えば、見開きで左右の頁が一度に読めることが理想である。そういう電子書籍なら私も是非購入したいと思っている。

 私は自分のこれまでの人生で、新聞や書物などを通じて様々な文章に出合い、それをじっくりと読むことによって自らの貧弱な頭脳に少しずつ知識を蓄えてきた積りである。そしてそのことが自分の財産となり、日本語の文章を読んだり書いたりする上で役立っているのではないかと思う。本当は、ただ黙読するだけでなく、声に出して読むようにしていればもっと良かったのではないかと思う。声に出して読んでいると、脳をより一層活性化させる(2*)からである。更に、漢字の読みを確認する動機にもなり大変に都合がよい。

【脱線】(2*)脳を活性化させる
 周知のように、日本語は表意文字と表音文字で構成されている。その日本語の文章を脳でどのように処理しているかというと、まず文字列を視覚パターンとして後頭葉に描き、既知パターンとの一致を求める。一致したら頭頂葉で意味処理を行い前頭葉で論理処理を行っている。
 つづりと発音とが一致しない言語(英語等)では、頭の中だけで発音してみる過程が加わり脳の聴覚機能が働くが、日本語の仮名を読む時は聴覚機能は働かない。したがって声に出して読めば脳の聴覚に関わる部分が活性化されるのである。
 漢字の場合は文字パターンが複雑なため、最初の後頭葉でパターン処理する段階で、より広い面積が活性化され、他の言語では左脳だけで処理が済むところを右脳まで総動員して処理しなければならなくなる。このように、日本語の文章を読むということは、他の言語に比べて脳のいろいろな部位を活性化させていることが分かる。もちろん、難しい漢字を沢山読まなければそうはならないが。

 日本語として正しい文章、良い文章を数多く読んでいると、我々は日本語の正しい言い回し、表現方法を自然に身に付けるようになる。最初の内は、それを自分で書けなくても構わない。少なくとも読んでみて、それが正しいまっとうな日本語であるかどうかを判断する文章力(あるいは日本語力と言ってもよいかもしれない)は身に付くであろう。

 最近、日本語の言葉の乱れが話題になっているが、その原因の一つは本を読まなくなったからだと言われている。たとえば、若者の間で「全然かまいません」とか「全然いいです」という様な言い回しが使われているが、“全然”の後には否定形の表現が続くのが普通だから、使い方に間違いがあるという指摘である。こういう議論になると必ず文法的な議論になり、肯定形が続いている例を持ち出してきて「全然いいです」は正しい使い方である、というような主張が展開されたりする。

 我々は(文法学者ではないから)文章を書く時いちいち文法のことを意識したりせず、自分の思いを自然のままに書き連ねているはずである。したがって、読み返してみて自分の日本語力に照らして不自然だと思う文章は、文法的に正しいかどうかを議論するまでもなく、やはり不自然でまずい文章なのである。それは到底、良い文章とは言えないであろう。誤解を恐れずに書けば、まっとうでない“間違った”文章なのである。

 我々は不自然な表現に出合うと、その部分が気になって読みの連続性が乱されて一定の速度で読み続けることができなくなってしまう。不自然さがひどい場合は、読んでいる文章全体に対して共感が持てず、場合によっては内容全体に対する信頼性さえも失われてしまうことになる。どんなに立派な本でも、そこで使われている日本語の文章が不自然であれば、読者はそれを読了する前に読む気をなくしてしまうものである。たとえば、癖のある表現が繰り返し使われていただけで、読むのがいやになってしまうことがある。読まれない本は、存在する意味がないと言えるであろう。

 不自然さのないまっとうな文章であるかどうかを判断するには、沢山の文章を読んで自分の日本語力を鍛えておく以外に方法はない。日々メールの文章を沢山読んでいますと主張する人がいるかもしれないが、ケータイメールのいい加減な文章ばかり読んでいても、決してこの日本語力は身に付かないであろう。ツイッターのつぶやき程度のいいかげんな文章を読んでいても、多分得られるものは少ないと思う。
 私は、プロの書き手によって作られたすぐれた文章に数多く接することを薦めたい。それを続けていれば“不自然さ”を嗅ぎ分ける日本語力を自然に身に付けることができるようになると思うのである。

 私は他人の書いた文章を査読したり、添削したりすることを仕事の一部としてやってきた。その時、読んでいて不自然なところは、できるだけ直してあげようと努力する。「たとえば、こう表現したらどうですか」という程度の指摘であるが。
 先の「全然かまいません」などという表現は、明らかに不自然な表現と言える。私だったら「全くかまいません」と直すところである。“全然”と“全く”の使い分けをうまくすれば簡単に解決する問題なのである。それを知らないから“全然”という表現にこだわって、不自然な文章にしてしまうのではないかと思う。つまり語彙が足りないのである。

 まっとうな文を書けるかどうかは、その人が良い文章をどのくらい多く読んでいるか、どのくらい豊富な語彙を蓄えているか、で決まるのではないかと思う。もちろん、私もまだまだ勉強中の身であり、この拙文の中に不自然な記述が多々あるかもしれない。その際はご容赦願いたい。■