素歩人徒然 住所 住居表記の変更
素歩人徒然
(82)

住所


── 住居表記の変更

 今年も、年賀状交換という日本独特の慣習を利用して、互いの安否を確認し合う作業が滞りなく完了したようである。例年と違い、私は喪中の人にも“寒中お見舞い”の形ではがきを出すことにした。実は昨年末、市の方針により私の住んでいる地区の住居表記が変更されたので、それを連絡する必要があったからである。

 今までは町の名称に続けて“地番”として高々4桁程度の数字を書くだけでよかった。しかしそれでは、特定の家を一意に識別するのが困難になってきたのであろう。新しい方式では町名の後に、例えば“3−15−19”のように数字を区切って書き連ねる形式になった。正確には“丁目1519号”のように書くべきところだが、それを略記したものである。これは一つの町を“丁目”で区分けして、その中のブロックごとに“”に当たる数字を割り振り、その中の個々の家に番号を振って“”として表記している訳である。手紙等であて先を書くときは、
 3−15−19
あるいは
 1519
等と書かなければならないことになる。更にマンション等の集合住宅では“棟”番号や“階数と部屋”を示す番号(普通は3桁程度)が必要になる。したがって、
 3−15−19−4−302
というような長い表記になってしまうこともある。

 コンピュータ・プログラミングの世界では、物に名前を付ける時はその内容が分かるよう表意文字を用いることが推奨されている(詳しくは「ソフトウェアと名前」参照)。単に数字による番号付けで物を区別するのは最も拙劣な命名法なのである。このような番号化により、それぞれの地域の特徴ある街区の名称が失われていくのは実に残念なことである。国民総背番号制の採用の是非でよく議論されているように、無配慮に番号化に走ると将来いろいろと問題が発生してくることも予想される。心配症の昔プログラマ(私めのことである)は、住居表記の変更通知を兼ねた賀状に次のような法則を書いておいた。

【変更通知の法則】
 ・どんな変更も、最初は「たいした影響はない」ように見える。
 ・したがって、変更を通知しても誰もそのことに関心を払わない。
 ・変更にともなうトラブルが発生すると、初めて問題の重要性が
  理解される。
 ゆえに、変更を伝えるのは無駄である。

 さて、本論に戻ろう。
 縦書きを原則とする日本では、はがきや封筒に相手先住所を書くとき、洋数字だけは横書きしなければならないので不便を感じることが多い。漢数字を用いて縦書きにするという手もあるが“11”を“一”“一”と縦に書くと“二”と読み違えられる可能性もあるのでやっかいである。今までは「不便だなぁ」と思いながら相手の住所を書いていたが、これからは自分の住所もそういう書きにくい表記になってしまったことになる。

 今回の住居表記の変更にともない、私の本籍も変わってしまった。以前は愛知県に本籍があったのだが、書類作りで何かと不便なので数年前現在の住所に移したのである。その後は現住所と本籍が一致しているので、手続き的にはかなり楽になった。しかし今回分かったことは、住居表記の変更により現住所と本籍が異なる以前の状況に戻ってしまったことである。その理由は、本籍というのは特定の家に結びつくものではなく、土地に結びついているものだからである。特定の家に結びつけるための“号”を含む住所表記には馴染まないことになる。昔、愛知県にあった本籍地も、気が付いたら交差点の真ん中になっていたということも起こり得るのである。この結果、私は新しい現住所と新しい本籍の住所とをそれぞれ覚えなければならないことに相成った。

 我々は、日頃様々な住所表記を使い分けている。したがって、これしきの事で驚いてはいけないのであろう。たとえば、本籍はその土地と結びついたものであるが、これを使う必要があるのは公的書類の作成などで記入を求められる場合くらいのものであろう。
 一方、現住所は今住んでいる場所に結びついているものであるから、これが普通は一番使われる頻度が高い。住んでいなくても別荘や妾宅を所有している人なら、更に住所が必要となる(妾宅とは表現が古いなぁ)。

 一方、電子住所というものもある。これは土地や家ではなく、個人に結びついた住所であると思えばよい。携帯可能な電子住所は24時間どこからでも連絡が取れる住所と言える。本籍や現住所よりも、これからは電子住所の方がはるかに使用頻度の高いものになっていくであろう。しかも、誰でも(別荘や妾宅とは縁のない人でも)複数の電子住所を持つことが許される。うれしいではないか。
 こうなると“住む所”という意味の“住所”という表記は、実態にそぐわなくなってきているように思う。我々はこれを単に“アドレス”とか“メールアドレス(メアド)”と呼んでいるが、この曖昧な表現の方が無難なのかもしれない。■