素歩人徒然 いい加減な日本語力 メディアの日本語力は信頼できるか?
素歩人徒然
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いい加減な日本語力


── メディアの日本語力は信頼できるか?

 大学の授業で提出されたリポートを読んでいると、最近の若者達が用いる日本語表現の乱れが気になり、できれば指摘して直してあげたいと思う。
 会社勤めをしていた頃は、社員が社外発表する文書は必ず事前に目を通しチェックしていたものだ。それが技術担当役員としての仕事の一つでもあった。部下の提出する報告書で気になる文章は、必ず直して本人に返却するのが常であった。しかし、100名前後の学生達のリポートとなると、短時間に処理しなければならない事情もあり、心ならずもそのままにしている。

 会社勤めをやめ教師になってからは、この様な学生達の書く“気になる文章表現”はそのまま私の記憶の中に保存されるだけで、それがまたストレスのもとになってきている。
 学生の中には、自分の提出したリポートについて感想を求めてくる真面目な学生もいる。そういう場合は、リポートをもう一度精読し全体の構成方法や表現方法についてコメントしてあげることにしている。感想を求めてくる学生は、自分のリポート内容にある程度の自信を持っているから、もともと出来が良い。更に細かい文章表現を工夫すれば、格段にリポートの質が上がることを実体験できたはずである。

 いくつか例をあげると、文頭にいきなり“結果、”を付けて「結果、・・・・となる」というような書き方をする者が多い。「その結果、・・・となる」という風に書けば、前文を受けて次の文へと滑らかにつながっていくと思うのだが、そういう細かい配慮に欠けているものが多いのだ。
 ところが、毎年このような表現のリポートに出会うので、私は誰かこの書き方を学生達に推奨している先生がいるのではないかと疑うようになった程だ。これは間違いとは言えないが、読みやすい文章を書くという観点からは「その」を付けた方が良いと思う。

 また「しかし」と書けば済むところを「しかしながら」と気取って書く例も散見される。「しかしながら」が多用された文章に出会うと、私は読み進む気がなくなり途中で放棄したくなってしまう。
 気取った表現、くせのある表現は避け、普通の表現を用いて読みやすい文章を書く努力をすべきであろう。読みやすい文章を書けるようになりたければ、プロの書き手によるすぐれた文章を数多く読むのが一番である。しかし最近の学生達は余り新聞や本を読まないようである。

 私は、いわゆる“若者言葉”を全面的に否定する積りはないが、友人間の会話や私的なメールで使うのならともかく、仕事上や公の場では、しっかりした普通の表現、つまり“真っ当な日本語”を使うようにしてほしいと思う。いわゆる“ら抜き言葉”を私も時々使うが、公にする文書に書く時は抜かりなく“ら”を入れるようにしている。この切り替えが自然にできるようになっていれば何ら問題はないと思う。卒業して社会人となり仕事の場で使う時は、抜かりなく真っ当な日本語に切り換えられるようになっていてほしいと思う。

 私は小学生の頃から、新聞記事をできるだけ隅から隅まで全部読むようにしていた。その成果であろうか、文章を書くことにそれほど苦労はしていない。そして何よりの成果は“真っ当な文章”と“いい加減な文章”とを正確に見分ける能力を身に付けたことであろう。その文章が文法的に正しいかどうかは問題ではない。読んで、しっくりと受け入れられるかどうかが問題なのである。私が“真っ当な文章”であるか“いい加減な文章”であるかを、本能的に即座に見分けられるようになったのは、新聞記事の“真っ当な文章”だけと長年付き合ってきたからだと信じている。

 ところが、その信頼していた新聞の文章が、近頃少し怪しいのである。最近の新聞記事の中には、いい加減な文章やいい加減な言い回しが散見されるようになった。これは由々しきことだと思う。先に述べた、文頭にいきなり“結果、”を付けて「結果、・・・・となる」という書き方を新聞記事の中に発見した時は、さすがに私もショックを受けたものだ。私のこれまでの判断は間違っていたのかもしれないと思ったからである。

 よくある間違いとして「檄を飛ばす」を「激励する」の意味で用いる例が多い(図1参照)。「檄」は、激励の「激」とは意味が異なる。昔、漢文を勉強した人なら決して間違えるはずのない用語である。「檄」を「ゲキ」と書いて用いた例もあった。これでは漢字表現が分からないから、誤用と気が付く人もいなくなる。この様にして、一般の読者は「ゲキを飛ばす」という表現は「激励する」の意味だと理解するようになるのであろう。


図1

 この様な若者達の用いる表現法が(たとえ、それが間違った使い方であっても)次第に大人たちに受け入れられ、普通に使われるようになってきた。私は、今までそう理解していたのだ。しかし、この「檄を飛ばす」あるいは「ゲキを飛ばす」の事例を新聞記事の中に見つけて、初めて気が付いた。これは、漢文を勉強したことのない若者がそのまま大人になり、社会人として新聞社やテレビ局等のメディアに職を得て記者となった結果ではなかろうか。更には、そのままデスクにまで出世した結果であろう、と。
 取材記者の書いたニュース原稿を、あらかじめチェックできるしっかりした整理記者やデスクがいれば、決してこんな間違った表現、あるいはいい加減な表現を用いた記事がそのまま新聞誌上に載ることはなかったはずである。

 単に「激励した」と書いたのでは陳腐過ぎると考えて、背伸びして気取った用語あるいは言い回しを(その正確な意味も確認せずに)使いたがる傾向がある。それをチェックできる査読者もいない。メディアの日本語力は、本当に信頼できるのだろうか、と思う。

 最近、野田内閣の経済通産大臣が舌禍事件がもとで辞任した。私はこの事件の経緯、特にメディアの対応にどうしても納得がいかないのである。
 彼は「市街地は人っ子一人いない、まさに 『死のまち』という形 だった」と述べた問題を指弾されたのだ(他にも失言があったらしいが)。

 ここで『死のまち』とは何を意味しているのか考えてみよう。多分「街の形体はしているが、人影がなく、人が生活している様子が全くない街」というくらいの意味で用いたのであろう。それは、まさに彼が見たであろう被災地の真の姿であり、それを率直に伝えようとしたのだと思う。この言葉には「死」という字が含まれているが、決してその街の人々を侮辱しようという意図で用いたのでないことは、良識のある人なら誰でも判断が付くことだ。しかも「死のまちというだった」という表現で、比喩であることを明確にしているのだ。ところが、現地で直接その光景を目撃してもいない人々(主に記者だ)が、よってたかってこの表現を非難し始めたのである(見てもいないのに!)。そして「被災者の気持ちを傷つけた」と勝手に忖度し、責任を取れと辞任を求める。一体、どこに問題があると言うのだろう。メディアの日本語力は、本当に信頼してよいのだろうかと心配になる。

 特に、新聞はその日の夕刊で「今後問題になる可能性がある」と書いて、自ら攻撃を煽る人々の先頭に立ったように見える。一方テレビは、地元の人々にインタビューし「どう思いますか?」と質問して、批判的な言質を引き出すことに熱心であった。被災者たちは、そんな言葉尻をとらえた問題よりも、復興のための努力を期待しているのは明らかなことであろう。
 このメディアの挑発に、早速飛び付いた反対党の幹部は「万死に値する」などと言って大臣の辞任要求を始めたのにも驚いた。「万死に値する」という言葉はどういう時に用いる言葉なのか、全く分かっていないようだ。こういう大仰な言葉を使えば、格好いい演説に聞こえるとでも錯覚しているのだろう。これも、いい加減な日本語力を示す典型的な事例である。

 誤解されることを恐れずに書けば、私には、メディアが反対党と一緒になって、言葉尻を捕らえてはくだんの大臣に仕事をさせないように努めているようにしか見えない。どんな言葉でも、取りようによっては非難の対象にすることができる。運悪くそのような立場に立たされたら、言葉の意味の取り違えを指摘してあげるか、あるいは無視するか、どちらかしか取るべき方法はないように思われる。本人はなぜ反論しなかったのだろう。こうと思ったら、それを主張し続けなければいけないと思うのだが。
 大臣としての仕事をしてもらって、被災地の復興に全力で取り組む方が日本のため、被災地の人々のためにもなると思う。新聞記者も政治家も、これ以上言葉尻を捕らえて仕事の邪魔をするのは控えてほしいものである。

 日本の首相が毎年1年前後で交代してしまうのは、諸外国からは奇異に見られている。これは政治が、内閣支持率に余りにも依存し過ぎているからではないかと思う。日本では、人気投票とほぼ同じ意味を持つ世論(せろん)という言葉を“よろん”と読み慣わし、意味の方だけは、あろうことか与論(よろん、輿論)の意味で用いている! 日本国民は、こんないい加減な日本語力しか駆使できないメディアに支配されていていいのだろうか(関心のある方は「ネット世論」を参照方)。
 歌手が、ヒット曲の人気ベストテン・トップの地位を1年間維持するのが至難なことであるように、それと同じ人気投票による内閣の支持率で1年以上トップの地位にとどまっていることが如何に難しいことか、分かりきったことではないか。政治を、人気投票の対象程度にしか考えていないから、一度非難されるとすぐさま謝って選手交代させてしまう。結局、日本の政治を駄目にしているのは、国民のいい加減な日本語力のせいではないかと思う。つまり、我々国民の国語力の低下が、日本を駄目にしている原因の一つなのである。甚だ残念なことだ。

 碌に本も読まず、いい加減な文章構造、いい加減な論理展開、いい加減な用語表現の文章しか書けないのでは、しょせん、いい加減な内容、いい加減な思想、いい加減な人格の表現しかできない。それはとりもなおさず、直接に我々が作り出すもの、リポート、論文、製品、‥‥政治、経済、外交にさえも反映してくることになる。
 諸外国のメディアには、日本国内でこのようないい加減な日本語が跋扈している現状とその問題点を理解できないから、なぜ日本の内閣が毎年回転ドアのごとくに代わっていくのか、これからも永久に理解できないのではないかと思う。■