素歩人徒然 若者の社会常識 学生のマナーを見て思う
素歩人徒然
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若者の社会常識


── 学生のマナーを見て思う

 企業で働いていた頃の友人と話をしていて、最近の若者のマナーの悪さが話題になることがある。そしてその原因として、とどのつまりは家庭や学校での教育、特に社会常識や道徳に関する教育が不十分だったのではないかという結論に落ち着くことが多い。企業をやめて今や教育の場にいる私としては、いささが憮然たる気持ちになる。

 そんなこともあり、私は毎回の授業の中で機会を捉えては「社会人になるに当っての心構え」として、各種の社会常識を教えることにしている。何しろ、名前を呼ばれても返事ができない学生、平気で遅刻する学生、はがきでリポート提出をさせると、手紙の書き方も知らない学生がいたりするなど、… 驚くべき状態になっていることを知っているからである。

 先日、興味深い経験をした。前期の最後の授業の時、今期のすべての予定が順調に消化できて余裕もあったので、残りの時間は社会常識、情報倫理、仕事に取り組む姿勢、などにしぼった話をして講義を締めくくった。そして資料を片づけ帰り支度をしてから、構内にあるバス停に並んで学生達と一緒にバスの到着を待つことにした。
 このバスは大学と最寄り駅とを結ぶ大学専用のものである。既に多くの学生達が並んで待っているが、この位置なら何とか座れそうである。しかし学生達は、仲間を見つけては前の方に割り込んでくるから、バスが来る頃にはかなり後ろの位置になってしまうことが多い。仲間と楽しく会話したいのだから、私は目くじらを立てるほどのことではないと思っている。

 以前、足を怪我して松葉づえをついている学生が乗ってきたことがあった。バスが動き出しても誰も席を譲ってあげようとしない。ゆられて転んだらまずいと思った私は、立ち上がって席を譲ってあげることにした。しかしその学生は特に礼を言うでもなく、恐縮するでもなく、そのまま座って友人達と談笑していたようである。どうも社会一般の反応とは異なるようだ。
 電車内で席を譲る行為も恥ずかしくてできない。あるいは逆に、当然譲るべき状況にあるのに本人がそのことに思い至らないような学生も多い。人に譲ったり譲られたりという経験が、ほとんどないのであろう。

 バスを待つ学生がかなり増えた頃、やっとバスが到着した。その時私の真後ろにいた学生が、突然「木下先生。どんどん割り込んでいますよ!」と声を掛けてきた。振り向くと先程の私の授業に出席していた学生である。「どんどん割り込んでますよ。先生、前に行きましょうよ!」とかなり憤慨した様子である。なるほど、気が付くとかなりの人が前に割り込んだ結果、もうかなり後ろの位置になってしまっている。「そんなに割り込みが許せないのか?」と私が応じても、視線を前方に向けたまま、まるで聞いていないようだ。次の瞬間「先に行きますよ!」と言って、一人で前の方に走って行き20人ほど追い越してさっさと乗車してしまった。

 私が日頃から情報倫理に関連して道徳とかマナーに言及することが多いので、割り込む学生に対して私が何か注意をしてくれると期待したのだろうか。私を道徳心の塊りのような人間と思っているのかもしれない。なに、教えていることと実際の自分とは別物なのだ。自分が“道徳心の塊り”のように思われるのは少し迷惑でもある。その“道徳心の塊り”を追い越して、自ら割り込み行為に加わるには、一言断ってからにするのが最低限の礼儀であるとでも思ったのであろうか。

 私は、この学生が取った行為に少し驚きながらも、そのまま列の動きにしたがって乗車口へと進んでいった。私が注意したり、割り込みに加わったりしなかったのは、単に大人としてそんな恥ずかしい行為はしたくなかっただけのことである。

 さて、いよいよバスに乗ろうとした時、少し離れた所から一人の男性がカメラをこちらに向けて構え、バスの乗車口の様子を撮影していることに気が付いた。変に思ったが、私はそのまま乗車した。見ると先程の学生は後方の座席に自分の席をしっかりと確保したようであった。よかった、よかった。私は、もう最初から座るのを諦めていたから、多くの学生と一緒に入り口付近に立つことにした。

 ところが、ふと見ると私の目の前の席が一つ空いているではないか。様子を見たが誰もそこに座ろうとしない。私は恐る恐るというか、これ幸いというか、その席に(できるだけ遠慮がちに)ゆっくりと座ったのであった。どうやら割り込んだ学生達も、年寄りの先生の為に一つだけ席を残しておいてくれたらしい。私はほんの少し、ほのぼのとした気持ちになった。やはり礼儀をわきまえた学生もいるのだ。若者は、それをあからさまに表現するのが苦手なのであろう。

 KYという略語が流行ったように、若者は周囲の空気(K)を読む(Y)ことに熱心である。人助けをしたいと思っても、先ず周囲の動向を見てしまう。誰かがやるだろうとか、自分がやると目立つのではないかとか。どうしても周囲の目を気にしてしまい実行する機会を逸してしまう。その結果、当然やるべきことが即座にできない人だと思われてしまうことになる。
 どんな状況にあっても、「こう、すべきだ」と思ったら断固それを実行するという信念が足りないのではないかと思う。それが、表面的に見た若者の行動形態への誤解となって現れるのであろう。

 それにしても、あの時私が学生と一緒になって前に割り込んだりしていたら(そんな可能性は全くないが)…、そうだ、あのカメラにしっかりと記録されていたかもしれない。「バスの乗車の列に割り込む先生」という傑作写真をものされていたかもしれない。そうなると、授業で礼儀作法や道徳の話はできなくなっていたことであろう。危ういところであった。しかし、あのカメラは一体何だったのだろう。今もって分からないでいる。■