素歩人徒然 大学の恩師 企業人から教育者へ
素歩人徒然
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大学の恩師


── 企業人から教育者へ

 大学時代の恩師、H先生が亡くなられた。ご高齢であったので、この寒い時季は特に心配していたところだった。
 聞くところによると、亡くなられる当日までお元気だったそうである。脚が痛いといって倒れられ、救急車を呼んだが間に合わずそのままお亡くなりになったとのこと。ご家族の悲しみを思うと軽はずみなことは言えないが、先生らしい見事な人生の締め括り方だと思った。

 先生に習ったコンピュータ(*)関係の授業が契機となって、私は教師になる道をやめ、企業でのコンピュータ開発の仕事へと進むことになった。
 大学卒業後もいろいろとお世話になってきた。コンピュータの仕事から医用機器の仕事に転勤となった際は、もうコンピュータの仕事ができなくなるのかと、かなり落ち込んだのを覚えている。報告がてら先生のお部屋を訪ねると、激励されるかと思いきや、意外にも「大学に戻って来なさい」と声を掛けられた。そんなことは無理であることを私は重々承知していたが、その一言に救われたような気持ちになったのを覚えている。そういった心にしみる一言をさりげなく言えるのは、やはりすぐれた教育者だったからこそできることなのだろうとしみじみと思う。後々、その時のことを思い出しては、この一言を自分への励みとしてきたのである。

【注】(*)当時は、電子計算機と称していた。

 その後、私は再びコンピュータ関係の仕事に復帰し、世界初のノートパソコンの開発に携わることができた。その私に対して先生は、大学の教師にならないかと、一度ならず打診してきたことがあった。私は引き続きコンピュータ関係の仕事に携わっていたいという気持ちが強かったので、結局先生の期待には応えられなかった。しかし大学のコンピュータ関係の科目で、指導教官がみつからない場合など、急遽先生から講師を頼まれることが多かった。負い目があったので、そういう要請は必ず引き受けることにしてきた。会社の了解を得て非常勤講師として学生を教えてきたのである。振り返ってみると、全部で6教科も担当させてもらったことになる。

 先生が定年で大学を退かれることになった時、先生が担当していた最後の科目「データベース論」も同じように引き継いでほしいと依頼された。しかしこればかりは任が重く、怖れ多いという気持ちもあってご辞退申しあげた。その後、お引き受けできなかったことが、ずっと悔いとして長く心に残っていた。先生逝去の報に接し、益々その気持ちが強くなってきている。

 先生のおかげで、会社を定年になった後も、引き続き大学で教師として働く機会を与えられた。十分にその職責を果たせたかどうか自信はないが、ここらで教師としての自分の仕事に区切りを付ける時期がきたのではないかと思う。ご冥福をお祈りしたい。■