続々・素朴な疑問
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続々・素朴な疑問:「チガカッタ」は若者言葉なのだろうか?

 以前、テレビで若い女性タレントが「チガカッタ」という表現を思わず発してしまう場面に遭遇し、ちょっと驚いた記憶がある。それを“変な日本語表現”という拙文で紹介したのは今から4年くらい前の話である。その後、ラジオやテレビでこの表現を使う若者たちが次第に増えていくのを知って増々驚くと同時に、自分の現状認識の甘さを痛感するようになった。もはや単なる使い間違いではないらしいのだ。

 私の経験では「チガカッタ」という表現は、言葉をまだうまく話せない幼児が、その発育段階の途中でよく使う表現である。次第に言葉を覚え語彙が増えていくと同時に、時制(過去、現在、未来)の使い分けや「てにをは」の使い方を身に付けるにつれて少しずつ正しい日本語を話せるようになると、自然に矯正されていくものであった。しかしそれが直されることなく、そのまま成長して大人になってしまったらしい。

 先日、最近始まったばかりのラジオ番組を聞いていたら、新任のパーソナリティが、「それ、チガクナイ?」という表現を連発しているのを耳にして再び仰天することとなった。ゲストの若者が使ったのではありません。パーソナリティと呼ばれる番組のホスト役の大人が使っているのです。驚きましたねぇ。

 「チガクナイ」もその発生経緯は「チガカッタ」と同根のものであろう。こういった使われ方を見ていると、おそらく使い間違いと言うより「若者言葉」の一つとみなされて大衆に受け入れられていくのかもしれない。

 若者言葉と呼ばれるものを私はできるだけ理解しよう(*)と努力してきたが、最近少し考えが変わってきている。若者が使う言葉の中の明らかな使い間違いは、しっかりと指摘して矯正してやるべきではないか。

【注】(*)理解はするが、自分で使おうとは決して思わない。

 「違う」の過去形を表現しようとして「チガカッタ」となってしまったのだろう。正しくは「違った」あるいは「違っていた」などと表現すべきであろうが(場合によっては不自然なときもある)、「間違っている」という表現を使えば、過去形は自然に「間違っていた」という風に表現できた筈なのである。

 また「違う」を強引に疑問文にしようとすると「チガクナイ?」となってしまうが、「間違っている」の方を利用して疑問形にすれば、自然に「間違ってない?」あるいは「間違っているじゃない?」と表現ができた筈だ。つまり色々な表現方法を覚えるのが面倒くさいと一つの表現に拘り、それを無理やり使い続けているからこのようなことになる。

 たとえば、若者がよく使う「全然、大丈夫です」という表現にしても、本来は「全く、大丈夫です」と言うべきものである。これは「全然」と「全く」の使い分けができないのが原因である。あるいは「全く」という表現を知らないだけの話かもしれない。いろいろな種類の副詞(全く、全然、…)を習得する努力が足りないのである。

 若者たちは「やばい」(あるいは「ヤバイ」)を「美味しい」という意味で用いているが、日本語には「美味しい」を意味する言葉が沢山ある。「ヤバイ、ヤバイ」と連発したり、その前に「超」を付けて「超ヤバイ」ですべて済ませてしまうのはどうかと思う。日本語の美しさ、表現力の豊かさを学ぶ絶好の機会を失ってしまっているのだ。

 「かわいい」も同じで、美しい物を見つけるとすぐさま「かわい〜」あるいは「カッワィ〜」を連発している。それ以外の表現方法を知らないのだ。日本を訪れた外国人旅行者の中には、日本では「カワイイ」という言葉が流行っていると勘違いしてしまう人もいる。

 こういうの表現を聞くと、私は「語彙が貧しいなぁ〜」と思う。どんなに派手に身を飾り立てていても、私には“貧しく”見えてしまうのだ。真に困ったことである。
 つまり、最近の若者言葉の多くは“無知”に起因するものである。若者言葉だからと一括りにして容認したりすべきではないと思う。何でも若者の言動に理解を示そうとする大人たちの態度は、私には若者に迎合しているようにしか見えない。

 ここでもう一度考えてみよう。「チガカッタ」は若者言葉なのだろうか? それとも単なる使い間違いなのだろうか?
 分からないなぁ・・・。