素歩人徒然 変な日本語表現 チガカッタ、号泣する、檄を飛ばす、説明責任、そうですね
素歩人徒然
(90)

変な日本語表現(その1)


   ──“チガカッタ”,“号泣する”,“檄を飛ばす”,
     “説明責任”,“そうですね”

 ブログ上に「変な日本語」の事例を、時々掲示している。ブログの特性として、過去の掲示はどんどん下の方へ沈んでいって読みかえされる機会は急速に失われていく。それらをサルベージ(掘り起こし)できるようにするためには何らかの対応が必要であると考えていた。そこで、いくつかまとまった段階で、ホームページのこの欄に掲示することにした。一部加筆修正された部分もあります。
◆「チガカッタ」
 先日ラジオを聞いていたら、出演者の一人が「チガカッタ」と口走った。大の大人が、である。「違っていた」と言いたかったのだろう。まだ言葉をよく覚えていない幼い子供がよく使う表現法だ。テレビでも一度この間違った表現を使う大人を見たことがある。実に嘆かわしいことだ。幼い日本語表現しかできぬままに、大人になってしまったのであろう。

 同じような表現で「キレカッタ」というのもある。これは「切れかかった」の意味ではなく「綺麗だった」という意味で使っているのだ。こういう間違った日本語表現は、お節介かもしれないが、指摘して正してあげないといけないと思う。

◆「号泣する」
 雑誌の広告などで「号泣する」という見出しをよく見かける。号泣するとは、大声をあげて泣くことであるが、大の大人が本当に号泣したのだろうか、といささか疑問に思うことが多い。雑誌の読者は、実際に泣いている場面を見た訳ではないので、その表現が正確なのかどうか確かめようがない。

 先日、ある大臣が国会の質疑の最中に、感極まって涙を流す場面を目撃した。すると翌日、メディアはこぞってこれを「号泣した」と報道したのである。この表現は明らかに間違っている。記者の国語力に、いささか疑問を感じる毎日である。こういう間違った使い方が定着してしまって、いずれ「俗語」とか「慣用語」とかの分類で、変な解釈が辞書に掲載されるようになるのであろうか。

◆ 「檄を飛ばす」
 新聞記事を読んでいたら、

 輿石東幹事長は「幹事長室はすべての問題が集中してくる。心あわせ、力あわせができる議論をしてほしい」と檄を飛ばした

という文章に出くわした。また、やっている。「檄を飛ばす」を「激励する」の意味に取り違えているのだ。よくある間違いだが、新聞記者ともあろう者が、このようないい加減な国語力でいいのだろうかとあきれるばかりである。
 この「・・・してほしい」という心構えを述べた程度のものは、到底「檄」とは呼べない。何か「行動を起こす」ことを求めているとも思えない。正確な意味も知らずに、気取った表現を使いたかっただけなのであろう。詳しくは「いい加減な日本語力」を参照してください。

◆「説明責任」
 「説明責任」という言葉がはやっている。政治家ばかりでなくテレビ・新聞等のメディア上でも盛んに使われている。どうやら、この言葉は敵(あるいは気に入らない相手)を攻撃する時に用いるものらしい。たとえば「説明責任を果せ!」あるいは「説明責任を果していない!」という形で用いるのが正しい使い方であるようだ。

 強制起訴された小沢一郎氏の裁判が行われている最中も、メディアは被告となった小沢氏に対して「説明責任を果せ!」と攻撃したり、あるいは「説明責任を果していない」と非難したりしている。
 しかし考えてみると、小沢氏裁判では検察官(正確には検察官役の弁護人)と小沢氏とが一対一で対決する場であって、むしろ検察側の方に訴追するに足る証拠を提示ことが求められている。検察に「証拠提示責任」があると言ってもよい。小沢氏に「説明責任」を問うのは、この場では見当違いではないかと思う。しかし政治家もメディアも盛んに「説明責任」を武器に被告人を攻撃する側に加わっている。ここは黙って「証拠提示責任」がはたされるかどうか待つべきではないか、と思うがどうか。

◆「そうですね」
 この正月休みの間、私はテレビでスポーツ番組を見る機会が多かった。そこで気になったのは、アナウンサーの問いかけに対して、スポーツ選手、テレビ解説者、あるいはコメンテイター達が、先ず最初に一言「そうですね」と言ってからコメントを始めていた点である。

 私はアナウンサーが質問を発する度に、また「そうですね」と応えるのではないかと思い聞き耳を立てていると、果たせるかな「そうですね」の一言が返ってくる。必ずと言ってもよいくらいのものだ。こうなると耳障りになってくる。気にしなければ何でもない一言が、一度気になるとその異常なくらいの繰り返しに「もう、何とかしてくれ!」と叫びたくなるくらい嫌な表現になってしまう。不思議なものである。

 この「そうですね」は、先ず質問者の考えに同意する姿勢を示しておいて、それから自分の話を展開していこうとするもの、との説があるらしい。もしそうなら、その反対語は「て言うか…」なのかもしれない(これも嫌な表現ですね)。

 しかし私は少し違うのではないかと思う。質問されて「そうですねぇ〜」と暫し考え、それからおもむろに自分の考えを述べる時などに使うべき表現ではないかと思う。英語の“Well, let me see. … ”みたいな、間を取るためのものではないかと思う。「そうですね」の一言の後、間髪を入れずにコメントし始めるのだから、間を取る必要はない。事実上不要な表現であるとも言える。だから、この「そうですね」は、単なる口癖なのではないかと思うのである。

 日常会話の中で、癖のある表現を繰り返し用いていると、聞き手にとっては聞き苦しいものになる。できるだけ無駄な表現は排除して、なめらかに話す努力をすべきではなかろうか。
ところで、貴方(女)はどう思いますか? (決して「そうですね」と応じてはいけませんよ)■