素歩人徒然 除草作業 エビデンスの残し方
素歩人徒然
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除草作業


── エビデンスの残し方

 しばらく休んでいたウォーキングを再び始めることにした。

 戸外での運動といえば、若い頃はジョギングやサイクリングが中心だった。しかし歳を取るにつれそれ相応にレベルを下げジョーキング((jog+walk)ing)となり、とうとうウォーキングだけという状態にまでなりさがってしまった。堕落(?)したものである。
 戸外を歩くのは気持ちの良いものだが、私めはアレルギー体質なので長年花粉症に悩まされてきた。戸外の運動から戻ると、決まって激しいアレルギー症状を呈するのである。

 数年前、人間ドックでの健康診断で明らかになったのだが、私が長年苦しんできたアレルギー症状(咳による呼吸困難)の原因は、アレルギー性鼻炎に起因するものとばかり思っていたのだが、実は(鼻炎の影響ももちろんあるが)気管支炎の影響によるものであることが分かったのである。そうとは知らず花粉の季節さえやり過ごせば何とかなると思い、長年自然に直るのにまかせてきたため慢性の気管支炎となってしまったらしい。そして今や快復不能の状態になってしまっているという。医者からは、このままでは肺の一部を切除しなければならない事態になると宣告されているのである(やれやれ)。

 そのためもあって、ここしばらくはおとなしく家にこもり運動をひかえてきたのである。しかし運動をしないでいるとどうも体調がすぐれない。寝つきが悪くなるし食欲も落ちる。全身の筋力も少しずつ落ちてきているように感じられる。何より困るのは腹が出てきて体形が崩れてくることである。その結果、着るものにも影響してくることになる。

 私は自分の結婚式のとき(ン十年前)に着たモーニングを、手直しせずに自分の娘の結婚式でも着用することができたことを誇りとしてきた。次女の結婚式でも無事そのモーニングで乗り切ることができた(実を言うと、ちょっと苦しかったのだが)。娘たちを皆嫁がせてしまった今となっては、もうこのモーニングを再び着用する機会が訪れるとは思えない。もはや体形が崩れても構わないのだが、それはそれ男には見栄というものがございまして。

 そこで、家の近所をそろそろと歩くことから始めたのであるが、どうも物足りない。次第に距離を伸ばしていって小一時間も歩くようになったが、それでもまだ物足りない。車が通る道路の歩道を歩いていたのでは車の排気ガスを吸わされることになり健康に良いとは到底思えない。そうだ、ここはやはり以前から歩いていたウォーキングのコースに戻ろう。

 私の好きなコースというは、実は多摩川の右岸を走る多摩堤通りと並行しているサイクリングコースなのである。川崎市の久地のあたりから河原に出て、土手上のサイクリングコースを川上へ向かって登戸方面へと歩く。そして歩きながら近くや遠くの景色を眺める。何時もジョギングやウォーキングをしている人たちに出合う。犬の散歩をしている人たちにも出合う。そういう雰囲気の中にいると何か解放されたような爽快な気分になれるのである。
 ただ一つ問題があるとすれば、それはこのコースには私のアレルギーの原因物質であるアレルゲンを発する雑草類が沢山繁茂していることである。アレルギー症状が出るのは分かっていても、どうしてもこのコースを歩きたくなるのである(困ったことだ)。

 随分と悩んだ末に、私めは再びこのコースを歩くことに決めた。肺の一部を切除することになるかもしれないが、まぁその時はその時だ。ただしアレルゲンを出来るだけ避けるためマスクをして歩くことにした。冬の季節のマスクならよいのだが、これからの暑い季節のマスクはつらい。人目も気になるが仕方なかろう。ただ、今までの経験からマスクをしてもほとんどアレルゲンの防御にはならないことを知っている。単なる気休めにしか過ぎないのである。

 梅雨時のこの季節、多摩川の土手は特に雑草類に覆われている。サイクリングコースの両側の雑草だけは梅雨に入る頃に一度、秋にもう一度と、年に2回程除草されるようである。多分区役所等から依頼された業者が除草作業に当たるのであろう。

 ウォーキング中にたまたま間がよいとその除草作業をしているところに出くわすことがある。2〜3人の作業員が、先端に丸いのこぎり状の刃を付けた除草機で雑草類を一気に刈り取っていく。よく見ていると結構いい加減な刈り方をしている。刈り残した部分に何か特別な意味があるのかと思って後で注意深く見てみるが、単に刈り忘れて虎刈りになっているだけのように見える。
 除草後の刈り取られた跡には干草の甘酸っぱい香りが残され、コースの見通しも多少はよくなりさっぱりとした感じにはなるが、河原にはまだまだ沢山の雑草が生い茂っている。少なくともアレルゲンの減少に役立つものとは思えない。

 また、たまたま間がよいと除草作業が一つの区画から次の区画に移るときに出くわすことがある。彼らは土手の上に止めた小型の車から小さな黒板を取り出し、それを車の後ろに立てかけて周囲の風景とともに写真を撮っている。その黒板には、白いチョークで日付と時間、そして“除草前”とか“除草後”とか書かれている。“前”と“後”の部分を消して書き直すのである。なるほど、その“除草前”と“除草後”の写真を添えて仕事を発注した役所に仕事が完了したことを報告するのであろう。

 私はこの除草作業の様子を眺めながら全く別のことを考えていた。証拠の残し方にもいろいろあるものだなぁと。
 役所は、その二枚の写真から仕事が滞りなく実施されたことを確認し作業に要した費用を支払うことになるのであろう。彼らは決して現場にやって来て作業結果を自分の目で確認するようなことはしない。したがって草刈りが虎刈り状態だったかどうかも知ることはない。役所の方はこの写真を唯一の証拠として大切にファイルしすべての処理が完了するのである。めでたし、めでたしという訳である。

 仮にこの作業費の支払いについて後で何か疑義が出されたとしても、この証拠写真のファイルさえ残っていれば何の問題もない。実際の作業者を捜し出しその人間の記憶に基づいて事実を再確認する必要などさらさらないのである。役所等の公的機関が残す証拠の資料(エビデンス)はすべてこういうファイルに置き換わって管理されているのであろう。実に良くできた制度である。

 一方このような証拠資料は保存期間が定められていて、その期間を過ぎれば自動的に廃棄される。したがって何か証拠隠滅を計りたければ、保存期間が過ぎるまで待つか、保存期間が切れていない内に誤って廃棄されてしまったことにすればよいのである。密かに犯された重大な犯罪を、最悪の場合でももっとずっと軽い罪(保存期間を守らなかったという単なる規則違反)に置き換えてしまうことができるという訳である。実に良くできた制度である。

 私は最近の官公庁で起こる不正事件を思い出しながら、エビデンスの残し方について思いをめぐらせつつ、いつものサイクリングコースを一人“てくてくと”いや“そろそろと”歩いているのでありました。■