今だから話そう 漫画家をめざした戦友たち 手塚治虫 松本零士 藤子・F・不二雄 石ノ森章太郎 赤塚不二夫 藤子不二雄A トキワ荘
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漫画家をめざした戦友たち


── 漫画家の松本零士さんが亡くなられた

男ありけり

   昔 男ありけり
    手塚漫画に影響され 漫画家を志す
    自分の未熟さを知り 早々に脱落
    晩年に至り 昔の 名も知らぬ戦友たちを懐かしむ
   ゴールした戦友たちに拍手

没年齢について
 漫画家の松本零士さんが亡くなられた。
 新聞で有名人の訃報を伝える記事を読んでいると、自分が高齢者になったからだろうか、没年齢が気になるようになった。特に、漫画家の場合は年齢欄を見落さないように注意している。

 松本零士さんの作品を、私は全く読んだことがない。そんな私がなぜ彼に注目していたかというと、それは私とほぼ同じ年齢層だったからである。年齢が近いことは以前から承知していた。

 今まで私が関心を持った漫画家には以下の方々がいる。
             生年      没年
(1)藤子・F・不二雄 (1933年12月1日 〜 1996年9月23日, 62歳没)
(2)石ノ森 章太郎  (1938年1月25日 〜 1998年1月28日, 60歳没)
(3)赤塚 不二夫   (1935年9月14日 〜 2008年8月2日, 72歳没)
(4)藤子 不二雄A  (1934年3月10日 〜 2022年4月7日, 88歳没)
(5)松本 零士    (1938年1月25日 〜 2023年2月13日, 85歳没)

 参考のため日米の漫画の大御所についても記すと、
ウオルト・ディズニー(1901年12月5日 〜 1966年12月15日, 65歳没)
・手塚 治虫    (1928年11月3日 〜 1989年2月9日, 60歳没)

 60歳台で亡くなっている方が多い。漫画を描くという作業は想像以上に厳しい仕事なのであろう。そんな中で藤子不二雄Aさんと松本零士さんは長生きされている方である。
 私が関心を持っている(1)から(5)の方々は、漫画家の手塚治虫氏が若い頃に住んでいた“トキワ荘”の住人たちである。

漫画家を目指した若者たち
 実は、私は子供の頃は漫画家になるのが夢だった。確か小学校3年生の頃のことではないかと思うが、手塚治虫の「新宝島(*1)」を書店で偶然見つけたのである。手持ちのお金では買えなかったので、一旦帰宅し自分の小遣いを貯めたお金を持って再度書店へと走ったのを覚えている。
【注】(*1)新宝島 1947(昭和22)年1月30日育英出版 初版発行 ハードカバー版
 書店で首尾よく本(*2)を手に入れて、待ちきれずに読みながら帰宅したので途中で小田急線の踏切で危うく電車に轢かれそうになったりもした(*3)。それ程 夢中になって読んでいたのである。
 この本を読んでから、自分も漫画家になりたいと強く思うようになった。
【注】(*2)この「新宝島」の初版本は、残念ながら現在では私の手元にはない。小学校時代の学友に盗られてしまったのである。
 新宝島の初版と称するものは3種類あるらしいが、その最初のものが 1947(昭和22)年1月30日 に発行されたものである。この版のみハードカバーで紙質も上質なものが使われていた。「宝」の文字が「寳」となっていてローマ字表記では「SHIN TAKARAJIMA」となっているそうである。
【注】(*3)このときの顛末は、以下に記されている。
  私の本棚(1)「手塚治虫」──手塚治虫ワールドのすべて
 以後、手塚治虫の漫画に魅せられて漫画を描いては投稿するようになった。このような少年たちが当時沢山いたはずである。私もその中の一人だったのだ。手塚治虫の助手を募集していることを知るとすぐさま応募しようとしたものだ。

 当時の漫画制作は一人で取り組むのが普通だったが、手塚治虫は作成効率を上げるため早くから助手を多数集めてチームで作成することを計画していたものと思われる。

 手塚治虫の出世作と言われる「新宝島」に影響されて漫画が好きになった少年少女たちが全国に沢山いた。その中からプロの漫画家を目指して活動を開始した若者たちがいたのである。その実態がどういうものか私には分からないが、新宝島の初版発売に合わせて漫画家になりたい少年たちが爆発的に増えたのではないか。このとき以降、漫画家を目指すマラソンレースが、号砲一発スタートしたのではないかと思う(知らんけど)。少なくとも一人の漫画少年(私め)が、誰に相談することもなく密かにスタートしたのである。

 応募規則では、手塚治虫の作品の中からどんな場面でもよいから一つ模写をして出版社へ送ればよいことになっていた。そこで私は、適当な大きさのアピールしそうな場面を選んで模写をすることにした。しかし鉛筆で描く段階まではよいのだが、黒インクで上書きする(これを墨入れという)段階になると結局原画通りに緻密には描けないことが分かってくる。自分の実力では無理なのかと、残念ながら応募を諦めるしかなかった。失敗の原因は、ソフトウェアの法則(40)「ソフトウェアと漫画(*4)」に詳述されているので興味のある方は参照されたい。
【注】(*4)ソフトウェアの法則(40)
    「ソフトウェアと漫画」── アイコンについて
 さて、中学2年頃まではこのようにして漫画を描くことに夢中になっていたが、高校受験も迫り母親から「もう漫画は卒業したら」の一言があったのを潮に、以後すっぱりとやめてしまった。それまでに買い集めた漫画本はすべて処分した。したがってそれ以後の手塚治虫の作品についてはほとんど知らない。

 最近は大人も漫画を読む時代である。教育現場でも漫画が利用されている(最近ではマンガとかアニメという呼称で呼ばれているが)。しかし当時は、漫画などに夢中になる子供はろくな大人になれぬと言われていた。もし今のような時代に少年期を過ごしていたなら・・・ と悔しくなることもある。
 しかし高等学校に進むと同じクラスに漫画を描くのがうまい男がいて、私の実力ではまるで相手にならないレベルであることを知った。早めに断念しておいてよかったと思う。

最後の勝者のゴール
 これ以後は漫画には一切触れることがなくなった。別の分野に目を向けようとしたのである。数学の面白さを知ったり、教師になりたいと思ったり…、そしてコンピュータの黎明期だったのでコンピュータのプログラム作りの面白さにのめり込んでいった。同時にいろいろな分野に関心を持つようになっていった。

 ときどき漫画に触れることもあるが、初めて聞く名前の漫画家が多数活躍しているのを知ると何か複雑な気持ちになることがある。
 しかし後年、漫画にも冷静に接することができるようになったので手塚治虫全集を密かに購入して昔を思い出しながら読んだりもしている(*5)
【注】(*5)「私の本棚」参照
 私と同じように熱心に投稿していた名前も知らぬ漫画少年たちはその後どうなったのかと考えることもある。未熟のままただ好きだからというだけでそのまま突き進んでいたら、今頃は売れない漫画家として苦労しているかもしれない。

 当時の戦友(真っ先にレースから脱落してしまった私が、彼らを“戦友”と呼ぶことが許されるのかどうか、はなはだ疑問だが)たちが、今では一流の漫画家として活躍しているのだろう。そう思って私は自分と同年代の漫画家に注目してきたのである。インターネットの世界があれば「トキワ荘」の住人だった漫画家を捜すのは容易である。漫画家を目指したレースの勝者を知るのは容易である。実は、前述の(1)〜(5)までの方々は、そのレースの勝者たちなのである。この他にも私の知らない勝者が沢山いるのだろう。

 前述の(1)〜(5)の方々が描いた漫画を私は一切読んだことがない。しかし松本零士さんの作品「銀河鉄道999」のアニメ版は誰でも知っている。彼の描く絵は驚くほど美しい。宇宙を旅する銀河鉄道の列車が、昔ながらの客車で描かれているのを見たとき、私は「あっ、やられた!」と思ったものだ。こういう表現をなぜ自分は思い付かなかったのか。悔しい! 多くの漫画家が同じ思いで嫉妬すら感じたことであろう。最後の勝者の見事なゴールを、私は確認できたような気分になっている。拍手を送りたい。

 いつか「銀河鉄道999」を読んでみたくなってきた。合掌